上司のヒミツと私のウソ



 言葉が出てこない。


 矢神課長は、いつもと変わらない静かな眼差しを私に向けている。その視線がゆっくりと私の右の指に降りていく。


 私の右手は、肘から下が石になったように感覚をなくしている。

 彼はそのまま私と目を合わさずに、踵を返した。


「待って……」

 届くはずもない、細々とした声。


 私は子供のように金網にしがみついて、彼の後ろ姿がこの空間から消え去るのを見ていた。

「いっとくけど、私が呼んだんじゃないわよ」

 安田がいいわけじみたこといっていたような気もするけれど、私は上の空だった。


 その場から走り出し、上がってきたときと同じ南側の扉から非常階段を駆け下りる。このビルのエレベーターは、一か所にしかない。


「待ってください」

 エレベーターホールに、彼がいた。


 鷹揚な動作で私を振り返る。いつもと同じ穏やかで冷静な佇まいからは、怒っているのかどうかさえ読み取れなかった。

「あの、私……」
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