上司のヒミツと私のウソ
 まだいるかもしれない。会社に電話して、今からファイルをとりにいくといえばいい。

 ただそれだけのことなのに、ためらう。そうしなくてもすむ方法を、心の中で必死に探している。


──なんで、私がびくびくしなきゃなんないの。


 考えてみれば、どうってことはないのだ。

 意識しすぎて混乱していたけれど、そもそも矢神とキスをするのははじめてではない。

 付き合っていたときの矢神は別人で、もっとスマートだったとはいえ。


 尻ごみする自分を心の中で蹴っ飛ばし、私は携帯電話を握りしめた。宣伝企画課のフロアにつながる直通の番号にかける。


 矢神が電話に出た。

 のんきな低い声が耳に届くと、また猛然と腹が立ってきた。


「西森ですけど」

「なんだおまえか」


 私だとわかると、ガラリと声の調子が変わる。

 今さらその見事な切り替えぶりに驚くつもりはないけれど、「なんだ」扱いされたことにはカチンときた。
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