それでも、課長が好きなんです!
 午後一番に「瀬尾さん、ちょっといい?」と僅かに棘のある声色で村雨さんに呼ばれた。
 早くお家に帰りたいよ……。 

「総務にいくつか文具を頼んであるんだけど、まだ届いていないらしいの。店に確認したら品物は用意できてるみたいだから直接もらいに行ってきてくれない?料金は立て替えといて」
「はい、わかりました」

 このタイミングでお使いとは嬉しい。
 一瞬でもこの息苦しい空気から解放される。
 喜びと僅かな身体の震えを感じながら自席へ戻ろうとすると「寄り道するんじゃないわよ」と声の棘が背中にグサリと刺さる。
 わたしはバッグから財布だけを取り出すと、足早に事務所を出てコートを取りにロッカーへと向かった。

 エレベーターに乗り閉じるボタンを押すと「ふぅ」と大袈裟な溜息が漏れた。
 ついわたしが柏木佑輔のことを佑輔君と呼んでしまったのには理由がある。
 一緒に過ごす時間が増えどう呼べばいいか分からず、向こうは年上だし「柏木さん」と呼んでいたら止めて欲しいと言われた。
 ただ、それだけだ。
 あれ……なんだかんだわたし、柏木佑輔と仲良くなってる?

 扉が開きエレベーターを降りる。

 柏木佑輔は一体どういうつもりなんだろう。
 一般人のわたしと彼とでは住む世界も違うし、関わって得することなんて一つもないのに。
 わたしだって得することは一つもない。
 誰かに自慢出来るわけでもないし。言えやしない。
 頭の中であれこれ考えながら歩いて数秒後、自分が目的の場所にいないことにようやく気がついた。

「え? どこ、ここ!」

 エレベーターに乗った時、閉じるボタンは押したけれど階数ボタンを押し忘れていた。
 自分のミスとは言えど少しのむかつきを感じながら、来た道を戻るため振り返ろうとすると目の前の扉が開いた。

「元気にやっているのならよかった、またね」

 女性の声と共にふわりと女性物の香水の香りが鼻をかすめる。
 自分の目を、疑った。

 すっきりとした上品なまとめ髪。
 白い肌に赤い口紅が映える。
 色調の落ち着いたブランド物の洋服に身を包み、頭から足の先まですべてに磨きがかかって完璧に見えた。
 女優の、綾川京子だった。

 わたしの存在などまるで無視。
 見向きもせず、まっすぐに伸びた背筋で前を向いてわたしの真横を通りすぎて行った。

 無意識に胸に置いた手に自分の鼓動を感じる。
 もう一度この目で確かめようと振り返りたくても衝撃が重すぎて上手く身体が動かない。

 でも、わたしを襲った衝撃はこれで終わりではなかった。
 再び、目を疑った。

 綾川京子が出てきた部屋から続いて出てきたのは、穂積さんだった。

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