box of chocolates
兄が帰ってくると、私はタタッと玄関に走った。
「おかえり!」
「杏? どうしたの?」
 何もしらない兄は、呑気に笑みを浮かべていた。
「ちょっと、お兄ちゃんに聞いてもらいたい話があって」
 私は兄の背中を押して、部屋に入った。
「話って、何?」
 兄は、あぐらをかきながら、先ほどとはちがう真剣な眼差しを私に向けた。なんとなく真正面には座れなくて、ベッドの上に座った。
「私、四月から八潮さんの店で修行することになったの」
「修行? まさか、住み込みじゃないよね?」
「お兄ちゃんは知らないかもしれないけれど、茨城にダンデライオンの二号店ができて、そこに。うちから電車で二駅ほどなんだ」
「なんだ。良かった! 住み込みなんかしたら確実に喰われるぞ」
 兄はほっとした表情を見せた。八潮さんのことは、わかっている。でも、敢えて知らないふりをして質問しようと思った。
 「喰われる? 八潮さんのこと『気をつけたほうがいい』って、言っていたよね?」
「杏みたいな子どもは、騙される。だから気をつけたほうがいいって意味だよ。あの人は、自分の魅力をよく知っているし、どうすれば女性が喜ぶか、わかっている人なんだよ?」
 私は、何も言えなくなって、俯いた。
「杏、八潮さんに好意があるようなこと、言っていなかったっけ?」
「ううん。違うの。単なる憧れだけ。アイドルを見ているような感覚で」
「杏」
 もう一度名前を呼ばれて、兄に視線を送ると、いつもの優しい兄の顔は消え、険しい表情をしていた。
「もしも、だよ? そんなアイドルみたいな人が言い寄ってきたら、どうする?」
「そんなの、ありえない」
「ありえないとは言いきれないんだよ。もし、そんなことがあっても、すぐに誘いに乗らないこと。わかった?」
「わかった」
 次は、本当に気をつけなければならない。
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