婚カチュ。
「実は社長、結構荒れてたんですよ。今日、関係を深めようと尽力していた取引先を横から別の相談所に奪われまして」
なぜそんな話をしだしたのか分からなかったけれど、たぶん広瀬さんは桜田さんのフォローをしたいのだと思った。
男性に引けをとらないような仕事をする彼女も、ときには羽目をはずしたい日があるのだと。
彼が代弁している。
「どんなに努力してもタイミングのいい人間には負けることがあるって、めずらしく弱気だったんですよ」
広瀬さんは苦笑して、眠っている桜田さんをちらりと見やる。
「それでは失礼します。二ノ宮さんも、恵まれたタイミングを大事にしてください」
そう言って、桜田さんのとなりに乗り込んだ。
ふたりを乗せたタクシーが夜空に突き立つ摩天楼のあいだをすり抜けていく。
とたんに寂しさがこみ上げた。
終電を逃した人々が、次々にタクシーを拾っている。帰りの足を失った酔っ払いたちを狙って、タクシーは何台も通りをさまよう。
こういうときに会いたくなる人こそ、本物の想い人なのだと思った。
わたしではなく、桜田さんに向けられた優しい微笑が、頭の中で何度も何度も繰り返される。
表情筋が死んでいても、きっといまなら泣ける。
かばんの中でメールの受信音が響いたのはそのときだった。