愛を知る小鳥
とてつもなく重い空気が部屋中を漂う。
視界の隅に入る彼の手は震えているように見えた。

「それから私は夜明けを待って…勘だけを頼りに家を目指しました。怖くて怖くてたまらなくて…でも私には帰る場所はそこしかなくて…」





「香月さん! いないからどうしようかと途方に暮れてましたよ!」

散々迷いながらもアパートが見えてくると、途端に全身が凍り付くように固まった。まだあの男が待っているんじゃないか…そう考えるとあと一歩が出ない。
そんな美羽を遠目に見つけた男性が慌てて駆け寄ってきた。一瞬あの男かと恐怖で震え上がるが、よく見れば引っ越し業者の男性だった。約束の時間になっても美羽がいないため、どうしたものかと困り果てていたようだった。

「すぐに運び出していいですか?」

「はい…すみません、ご迷惑をおかけしてしまって…」

部屋に入るとあの男の姿はどこにもなかった。まるで夢だったかのように。
だが部屋に散乱する荷物がそれが現実であることを嫌でも思い知らせてくる。滲む視界にふとある物が目に入る。震える手でそれを持ち上げると途端に涙が溢れ出した。

「あの、余計なお世話かもしれませんけど…大丈夫ですか? ここ…」

涙を流す美羽の姿にオロオロしながら、自分の頬を指さしながら心配そうにその男性は尋ねてきた。そっと手で頬に触れるとズキンと激しい痛みを感じた。そういえば夕べあの男に殴られたのだ。時間も経って見た目もさぞひどいことになっているのだろう。だがもはやそんなことはもうどうでもよかった。
何も答えずただ涙を流す美羽に戸惑いつつ、作業員は再び荷出しを始めた。



こうして幼少期から過ごした小さな部屋を、思い出に浸ることもなく後にした。
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