明日、嫁に行きます!

「……はあ……」

 助手席に座ったまま、私は魂が抜け出そうなほどの大きな溜息を吐いた。疲労感が半端なかった。

「30点ですね」

「は?」

 ハンドルを操作しながら、鷹城さんはミラー越しに呆れた声をあげた。

「決別するつもりがあるなら、もっとはっきり言わないといけない。最後の返事は、彼に希望を持たせてしまった。だから、答えとしては30点です。はっきり『死ぬほど嫌いだから二度と私に近付くな』とか『学校で声を掛けてきたら殺す』とか『気持ち悪いから死ね』とか。そういった決定打を、正直に伝えなければ」

 頭をゆるりと振りながら、鷹城さんは当然だろうという顔つきで非道なセリフをペロッと口にする。
 彼は告白してきた女に対し、そんな辛辣な返事を返しているのだろうか。鷹城さんが指南してきた『男をフる決定打的セリフ』を反芻し、惨憺たる悪辣さ加減に『絶対言えないムリムリムリッ』と、私の顔面がムンクになった。

「正直にって……そんな思ってもないこと……。なんでそこまで心にもないセリフを言わなきゃいけないの!?」

「思ってないんですか。……それは残念です。貴女はそんなふうに甘いから男に付け入られるのですよ。それを自覚しなければ」

 ……自覚って。受け入れられない思いには、そこまで悪辣非道なセリフを吐かねばならないのか? 鷹城さんが言うように、私が甘すぎるのか!?
 勇気を出して自分のことを好きだと告白してくれる相手に対し、死ぬほどキライとか殺すとか気持ち悪いから死ねとか。
 そんな答えを返すことが、世間一般的に普通なのか!?
 顎が外れるほどに驚愕する。
 ……言えない。そこまで非道なセリフ、誰にも言えない……!!

「貴女が甘すぎるので、僕からもう少し牽制しておけば良かったですね」

 僕の対応も甘かったと反省する鷹城さんに、私はカッと牙をむいた。

「あれ以上何するって言うの!? だいたい鷹城さん、浩紀に痣が出来るほど暴力振るうなんて、どういうつもり!? 彼、私の友達なんだからね!」

 浩紀のこと思うさま嬲っていたじゃないかと、怒りを露わに抗議する。
 私が放った『友達』というセリフに、鷹城さんのこめかみがピクリと引き攣った。

「まだ言いますか、貴女。彼に襲われるまで、自分が狙われているという自覚すら芽生えないのでしょうか。愚かな女です」

「愚かって……! 言わせてもらうけどね。浩紀は鷹城さんと違って普通の男なの。鷹城さんみたいに笑顔でナイフ突き立てるような男じゃないんです! ずっと友達だったんだからね! だいたいそんな突拍子もないこと、浩紀が考えるわけないじゃない!」

 愚かな女だと嘲笑され、むかーっとなる。それに、浩紀が安易に女を襲う男のように言われて、さらに怒髪天を衝いた。

「普通も特別も関係ない。男は男。隙を見せたら最後、美味しく頂かれて終わりです」

「浩紀は鷹城さんみたいなケダモノな男じゃないのよ!」

「男は皆、ケダモノですよ?」

 ちらりと淫靡な眼差しを向けられて、ウッとなる。
 そんなダダ漏れな色気で誘惑してこようとするな。
 子供だからと完全にバカにされてる気が激しくする。

「浩紀とて同じ事。あそこまで嫉妬を露わにして、友達だなんてあり得ない」

「でもっ! 今はもうただの友達なの。鷹城さんが思うような関係じゃないんだよ」

 友達であり続けたいけれど、彼が私のことを女として好きだと思っているのなら、私は彼から遠ざかる。そう思って、ハッとした。
 だから浩紀は、離れようとした私を繋ぎ止めるために、友達で有り続けることを望んだのかと。
 いや、違う。違和感を覚え、それは違うと頭を振った。
 きっと、ダメ男ばかりに惹かれてしまう私を心配してくれていたからだろう。放っておけないと思ってくれたから、傍にいてくれているのだと思い直した。
 その時だった。
 鷹城さんの纏う空気の温度がスッと下がった気がして、ギクリと隣を振り返ってみる。
 冷たく強張った彼の顔に、怒りが滲んで見えた。

「……今は友達? では、以前はどんな関係だったんですか」

 感情を乗せない冷淡な声。けれど、肌を刺すようなピリピリとした怒りを感じる。緊張にコクリと息を呑んだ。

「え? ま、前は、少しだけ付き合ってたこともあるけど」

「……ほう。付き合ってたことがあるんですね? あの男と」

 ざわりと肌が粟立った。眼鏡の奥の双眸が、冷たく色を変えていた。

「い、いや、1週間くらいなんだけどね。すぐに別れて、今に至るっていうか」

 なにも後ろ暗いことなんてないんだけど、鷹城さんが発する、嵐の前の静けさに似た怒りに恐怖を覚えて、忙しなく視線を動かしてしまう。
 そんな私を見て、鷹城さんはスッと目を眇めた。ミラー越しに、責めるような眼差しで射貫かれて、呼吸が止まる。

「彼は貴女のセフレですか? それとも、ただのキープ?」

「は!?」

 平坦な口調で話す、鷹城さんの言葉に耳を疑った。

 ――――浩紀が私のセフレ!? キープってナニ!?

 鷹城さんに感じた恐怖が怒りにすり替わる。
 私のこと、そんな行いをするような軽薄な女だと思っていたのかと、怒りに目の前が赤く染まった。

「昔付き合っていた男と今は友達? なおさら理解できませんね。打算的な何かがあるんじゃないんですか」

 震える拳を握りしめ、大きく息を吸った。
 このまま感情を爆発させたい衝動に駆られたが、グッと耐えた。
 ちゃんと誤解を解かなければと思ったんだ。

「……あのね。別れた時、私は浩紀から離れようとしたよ。でも、彼は言ったんだ。今まで通り親友でいようって。身体の関係なんて元々なかったし、彼とそんなことしようとか思ったこともない。私が打算的に男と付き合う女だって、鷹城さんは思ったんだ?」

 浩紀と身体の関係がなかったというセリフに、鷹城さんは驚いた顔をした。そして、正面を見据えたまま、顔を顰め、考える素振りを見せる。

「そうですね、失言でした。寧音は違う。貴女はそれにあてはまらない。けれど、無意識に男を惑わせ翻弄する、そんな女はよりタチが悪いと思いませんか?」

 ちらりと私を流し見ながら、あたかもそれがお前なのだと言ってるような彼の態度に、とうとう私はキレてしまった。

「ふざけんな! バカにするのも大概にして! タチの悪い女ってなに!? 無意識に男を惑わせ翻弄するって、私のこと言ってんの!? なに、なんなの鷹城さん、そんなふうに思ってんの、え、私って……そんな、そんな女、なの……?」

 怒りの声がだんだん尻つぼみになってゆく。
 私、そうなの? ダメ男が寄ってくるのも、無意識に惑わせるような行動を彼らに取ってしまってるから? いわば、自業自得だった?
 狼狽するあまり愕然と動きを止めた私に、鷹城さんは声を立てて笑い出した。 

「すいません、冗談です。本気にしないで下さい。貴女は計算高い女では全くないですが、浩紀は間違いなく打算で動いています。気をつけなさい。男に傷つけられ、寧音が弱るのを虎視眈々と狙っている。そのことを貴女自身に気付いて欲しいのですが、まだそれを寧音に求めるのは無理なようです」

「……え」

 え、冗談だった? 
 どういう意味だろうか。
 浩紀が打算で動いている?
 でも、浩紀は私をどうこうしようと画策したりとか考えるような男じゃないんだけどな。
 女に騙されて泣きついてくるし、浮気されて泣きついてくるし、彼女の暴言に泣きついてくるし。
 あれ、なんか私に似てると思い、眉間に皺が寄ってくる。
 浩紀はそこまで計算できるような男じゃないと、私は鷹城さんに言ったんだけど。

「それこそ彼の計算だと言っているんです。そこまで愚かには見えませんでしたよ、彼」

 ――――寧音に近付くため、共感を得るために、そんなふうにいってるだけなんじゃないんですか。

 あくまで疑い続ける鷹城さんに、私はムッと顔を顰めた。
 でも。
 彼と同じ行動を取る私も、愚かだと言われているようなものだ。
 鷹城さん曰く、浩紀に狙われていることに気付かない私はお子様で、しかも、男に泣かされ続ける私は愚かだと、浩紀のことを言ってるようで、実際は、私自身をバカにされたような気がしてならない。
 ちらと鷹城さんを盗み見る。
 微笑を浮かべながら、ミラー越しに絡まる視線に冷たい怒りを感じるのは気のせいだろうか?

「だいたい貴女には隙がありすぎるんです。つけ込まれて、喰われてしまいますよ?」

 私を一瞥した鷹城さんの唇が、ゆっくりと弓なりに吊り上がってゆく。

「今、こうして僕に捕らわれているように」

「な、なにそれ。私が20歳になったら無罪放免なんでしょ。鷹城さんは大会社の社長だし、私はただの女子大生。共通点なんてないし、契約期間が切れたら、それでサヨナラになるんだから」

 それは、紛れもない事実だった。
 今は、鷹城さんが言うように、彼に捕らわれているのかも知れない。
 でも、契約期間が満了したら、それで終わってしまう関係。
 一抹の寂しさを覚えながらも、私は憎まれ口を叩いた。

「僕から離れることは出来ません」

 鷹城さんは、きっぱりと言い切った。
 憂いの混じる笑みを刷きながら、『無理なのだ』と、ゆるりと首を振る。
 悪魔に魅入られたようにして、私は彼に目を奪われてしまって。

「僕は、狙った獲物は決して逃しはしない」

 嗜虐に歪む鷹城さんを、恐々としながら私は見つめた。
 そんな誘惑紛いな言葉を吐いてまで、偽装結婚を承諾させたいのだろうか。
 クッと唇を噛み締めながら、私は大きく深呼吸する。そして、言い放った。

「契約の任期を全うして、20歳になったら、絶対に逃げてやるんだから!!」

「いいえ。逃がしません。決して」

 畳みかけるようにして、鷹城さんは『逃がさない』と宣言する。
 彼の言葉に私は目を瞠ると同時に、ゾクリとした甘い痺れが背中を駆け抜けた。
 悔しさに歯噛みする。その時点で、もうすでに負けた気しかしない自分が情けなくて。身体を横にむけて、ハンドルを捌く鷹城さんをムッと睨み据えた。

「もし逃げ出したら。その時は、ただじゃ済みませんよ」

 ――――その覚悟があるのなら。どうぞ?

 ニィッと唇に綺麗な弧を描き、淫猥で凶悪な色気を発しながら、鷹城さんは私を挑発してくる。
 鷹城さんの手のひらで踊らされるようにして、彼の内に絡め取られそうになる。
 バカにするような言葉を吐かれたり、浩紀にひどいことした男なのに。
 大人の色香に惑わされそうになっている弱い自分がイヤだった。

「……た、鷹城さん、怖い」

 私は感じたままを正直に吐露した。
 鷹城さんが怖かった。
 彼に翻弄された挙げ句、自分の心がどう変化し、判断するのか想像出来なくて。不安で、子供のように怯えてしまう。
 私が放ったセリフに、鷹城さんは驚いたように見開き、そして、ふふっと笑みをこぼした。

「怖い? よく言われます。でも、これが僕にとって『普通』なので」

「……少なくとも、私が知る『普通』じゃないことだけは確かだと思う」

 私の言葉に、鷹城さんはくくっと肩を揺らした。

「言ったじゃないですか。僕は貴女と同じく、世間一般で言う『普通』ではない、『異常』なのだと」

 にこりと告げた鷹城さんのセリフに、彼を異常とまでは思わないけれど、限りなく近いものがあるのではと、恐々としながらゴクリと喉を鳴らした。

 そして、同時に、私はやはり『普通』とは縁遠い男に惹かれてしまう性質なのだと、遠い目をしながらそう思った。


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