月夜のメティエ

「あのさ、暇だったら「ICHIRO」に来ない?」

 店の名前。どういうことかは理解してる。ピアノを聞きに来ないか、そういう意味だ。飲みに来ないかっていうことでもいい。暇だったら、っていうのがちょっと嫌だけど。

 どういうつもりで誘ってるのかは、いまいち分からないけれど……。舞い上がる心があたしの中にあるのは事実。音楽教室でのことがあったから、

「い、行って良いの?」

「良いに決まってるだろ、お客さん連れて行けばママも喜ぶし……」

 ああ、まぁそうだけど……。

「明日の夜、弾くことになったんだよ。来ないかなって。平日だから忙しい?」

 明日は水曜日。別に行けないわけじゃない。帰ってきて今日だってこうしてビールを片手に。おっさんか。

「うん……大丈夫だけど」

「そうか。良かったら来て。20時からだから」

「分かったよ。仕事終わったら行くね」

 声をかけられて、ほいほい行くのかあたしは。でも……何度目かの自分へのいいわけ。同級生としてピアノを聞きに行ってるだけだし……。

 電話を切ってからも、ビールに口を付けず、スマホを握りしめて窓から外を見ていた。今日の夜空は月が出ていない。

 出会うのが早いとか遅いとか、そんな理由で忘れられるならば、こんなに苦しい気持ちになったりしない。



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