幻想
 マナの母親はハイヒールで床を打ちつけた。金槌で釘を打ちつけるように。梨花には床がへこんだように見えた。
 園長の姿勢は猫背になり、いずれ頭と爪先がくっつくのではないかと感じるぐらい前傾している。顔を上げ園長がこう言った。
「よろしいとは?」
 園長の一言にマナの母親は効果的な笑みを見せる。懐柔しようとするものにありがちな頬をしっかりと膨らませた会心の笑み。
「隣の方を解雇してください。即刻です。今、この場を持って。幸いにも先生はお若いですから就職はすぐ見つかるでしょう。若さとはやり直しが何度でもきく。しかしそれはいつまでも続かない。そうでしょ?園長」
 園長はしばし無言のまま、項垂れている先生を確認し、なぜか梨花に救いの視線を投げ掛け、彼女は首を振った。
 助けることはできない。
 諦めを悟った園長は、「おおせの通りに」と江戸か明治か大正のいずれかにタイムスリップしたような文言を放つ。
「では、話しは終了」
 とマナの母親は踵を返し、「じゃあね」と高飛車な挨拶をマナは残した。それが彼女の第一声ということは周知の事実であり、苦労しらずの娘というのは好感が持てない、と梨花は思った。マナ母娘の匂いと言葉は立ち去った後も残留し、置き去りにした。全ては、この空間を支配する為であり、もしかしたらこの世界をも支配する気なのかもしれない。
「セックスの何がいけないのよ」
 先生は怒りの言霊を放った。それが本心であり、その本心さ故に彼女は幼稚園を去った。
 気づけばマナは園長先生のお力添えの元、空きのある孤児院で引き取ってもらい、中学までそこで暮らした。高校からは通信制の学校に通い、昼間はアルバイトに明け暮れる日々を過ごした。
 人生、って疲れる。梨花は常々思う。

 心が乱れているのかもしれない。梨花は吐き気を催し、さらには尿意をもよおし、三号室と二号室の間にあるトレイに向かっていた。絹枝の母親的表情を見て、なにか心が揺れ動くのを感じた。 
 三号室は四号室とは違い、�余裕�の二文字を纏っていた。梨花はぐるりと辺りを見回し、ある二人連れに目を釘づけにされた。正確には黒髪の女性。
 綺麗。
 大人びた表情が梨花に、憧れ、を想起させた。その黒髪の女性を見つめた。
「なにか?」 
 と意志の強い相手のお腹に響くような声がした。
「なにも」
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