幻想
 鈴音は意表を突かれた。新宿の駅構内で男と肩がぶつかり合った際にバッグが落ち中身が散乱した際の出来事。数ある出来事の中でも、肩がぶつかる、という接触は新宿内部ではよくあることであり、別段不思議がることもない。不可思議なのは、その言い回しだ。
「どういう意味?」
 訝る鈴音は、その一言を放たざるを得ない。
「意味はない。が、その通り」
 腰を屈め、散乱した荷物類を拾いながら男は手を止め、触れてはいけないぐらい白光りする高級そうな歯並びをのぞかせた。遊びの効いたくしゃとした白シャツに黒のVネックのインナー。ひきしっまった身体はジムにも通っているのかもしれない。革靴はよく磨かれ、一切の汚れはない。もしかしたら新品かもしれないし、そうでないかもしれない。しかし、手入れが行き届いていることは明白だった。
「これで、全部ですね」
 両手にリップクリームやハンドタオル、そして文庫本を手に持ちながら男は言った。
「ありがとうございます」
 鈴音は感謝を述べた。ぶつかってきたのは男の方なのに。
 文庫本を見ながら男は、「恭一と言います。たしかこの本の主人公も恭一では?」とさりげなく自己紹介をした。
 鈴音は文庫本を確認し、辺りを見回す。新宿駅構内で立ち止まっているのは二人だけであり、周囲は何事もなかったかのように二人を避けて歩みを進めている。それが人間の現実であり、本質。
 見てみぬふり。
「そうですよね?」
 尚も恭一は食い下がる。
 文庫本のタイトルは、『回廊』記憶をなくした男が記憶を取り戻す物語。端的にいえば。そこにはもっと深い真実が隠されている。だが、ラストまで読めてはいない。
「恭一だね」
 鈴音は言った。彼が持っていたリップクリーム類を受け取り、バッグに流し込んだ。彼女にとっては儀礼的な作業であり、幾分か大雑把だ。
「せっかくだからこの後、パンケーキとコーヒーを絡めながら文庫本の考察をしないか?」
 これは新手のナンパだろうか、鈴音はバッグに視線を向けたまま思う。
「いいわよ」
 なぜかそんなことを言っていた。それが鈴音の選択だった。どうしてだろう。心がやさぐれていたからか。人と話たかったかもしれない。家族がいなくなったからかもしれない。
 ああ、そうだ。もういないんだ。一人なんだ。鈴音は文庫本を握りしめた。もう一度。強く。もう一度。力強く。
「行こうか」
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