ラストバージン
「いただきます」

「はい」


どうやら榛名さんは私が購入するのを待っていてくれたようで、その些細な気遣いが妙に嬉しかった。


理髪店の店先に置いてあるガーデンベンチに腰掛けた彼が、骨張りつつも綺麗な手で缶のタブを開ける。
私も少し距離を置いたところに腰を下ろし、同じように缶を開けた。


「ご自宅はこの近辺なんですか?」


一口含んだココアの甘さが口内に広がったところでそう訊かれ、榛名さんを見ながら「はい」と頷いた。


「榛名さんは?」

「僕もわりと近いです。ここから、歩いて十分も掛からないくらい」

「私は徒歩五分くらいです」

「便利ですね」

「それを一番に考えて選んだので」

「僕は電車の音が聞こえるのが嫌なので、敢えて駅から少し距離がある場所にしたんですけど、夏と冬だけは駅前に住みたくなるんですよ」


低く穏やかな声音は冬の凜とした空気に馴染むように響き、耳にも心にもそっと入り込む。


冬空の下のベンチはひんやりと冷たいし、頬に当たる風の温度もピリピリと痛む程のものなのに……。ココアの缶からじんわりと伝わる熱と榛名さんの醸し出す空気感が心地好く感じ、不快感を抱く事はなかった。

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