【完】そろり、そろり、恋、そろり

202号室、一日の終わりに side:M

「おやすみなさい……」


拓斗君の背中に向かって言ってはみたけれど、足早に去っていく彼には小さすぎる声では聞こえなかったんじゃないかって思う。


だって、あまりにも動揺しすぎて、平然を装う事でいっぱいいっぱい。きっと拓斗君からすると怪我人を前にして、仕事モードになったんだろうけれど、あの距離は動揺するなって方が無理な話。ナチュラル過ぎて、それが逆に恥ずかしさを助長していた。


それにしても……嵐のようだったな。


理学療法士っていう仕事をしているって言っていた。病院で働く人っていったら、お医者さんと看護師さんくらいしか浮かばない私には、理学療法士と言われただけでは何をしているのかイマイチ分からない仕事。


リハビリをする専門職だって説明してくれたけど、はっきり分かったのは怪我でもしなければ全く縁の仕事なんだろうな。けれど、拓斗君が好きでやっている仕事だってことは、彼の表情を見ているだけで伝わってきた。あんな風に楽しそうに仕事の話が出来るなんて素敵だね。


普段からあんな距離で患者さんと接しているのかな。中には若い女性もいるんだろうな……


「痛い」


胸の奥がズキっと痛みを訴える。自分で想像しておいて、自分で苦しくなるなんて……どんどん拓斗君の存在が、私の中で大きくなってしまっている。


けれど、30歳が見えてきた今、簡単に恋だとか認められないし、認めたとしても簡単に前へは進めない。


もっと若い時だったのなら、もう少し気楽に気持ちを受け入れられたかもしれないのに。そんな風にはなれないのが現状。私にとって抗えない現状。


拓斗君に会えて、拓斗君のことを今までより知ることが出来て、嬉しいと思う反面、これ以上深入りするなという矛盾する気持ちが同時に存在して、頭の中はもうぐちゃぐちゃ。


ダメダメ……気持ちが沈んでしまっている。


きっと怪我をしたりと色々あって疲れているんだろう。頭をフルフルと横に振り、邪魔な思考を振り払った。


今日はゆっくり休もう。彼の言いつけを守って、晩酌はお預け。


シャワーでも済ませて、さっさと寝よう。あっ、あの氷も使わなきゃ。わざわざ彼が持ってきてくれたものだから無駄にはしたくない。
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