氷の卵

悲しみと喜びと

啓が戻ってきてから半年が過ぎようとしていた。


「みどりさん、僕ね、一つ思い出したことがあるんですよ。」


ある日突然啓が言った。


「何ですか?」

「僕には、以前、とてもとても愛していた人がいた。」


私は言葉を失う。
啓は、思い出したんだろうか。
でもそれにしては、落ち込んでいないではないか……。


「いや、思い出したというか、僕は本能的にそれを知っている。それが誰で、どんな人で、どうして失ったのか……そういうことは何も分からないけれど。」

「そう……。」

「そして、その愛していた人は、みどりさんだったんじゃないかと思うんです。」

「それは違います。」


驚いた。
啓がそんなふうに言うなんて、思ってもみなかった。

その言葉を否定するのはとても苦しい。

でも、私は絶対に否定し続けなくてはならない。

嘘をついて啓に愛されようなんて、そんなこと微塵も思わない。


「違います。」

「でも……、僕は以前、あなたに会ったことがあるような気がするんです。それに……、」


啓は足元に視線を落とした。


「それに、過去がどうであれ、今僕は、あなたのことが好きです。」


どうしていいか分からなかった。
啓に好きだと言われても、素直にうなずけない自分がいた。


「あなたは……高梨さんは、いずれご自身の過去と向き合う時が来るでしょう。そして、そしたら……、」


思わず頬を涙が伝う。


「そしたら、あなたは今度は私のことを忘れるんです。」


啓は打たれたような顔をして、私を見つめていた。


「焦らないでください。高梨さんはいずれ、過去と向き合えるようになりますから。そしたら、それでも、私のことを好きでいてくれるなら……、その時は私の気持ちをお話ししましょう。」


啓はそっとうなずいた。

お互いの心を、そっと抱きしめるように。


出会ってから一番切ない微笑を浮かべて。
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