小咄
「打ち合わせ中じゃなかったのか?」

「けど、こいつの悲鳴が聞こえたんでな。……どうしたんだ」

 真砂が深成に近付きながら言う。
 今すぐ飛びつきたい衝動を必死で抑えながら、深成はぎゅっと唇を噛んだ。

 しばらくしてから、資料室から羽月と六郎が出てきた。
 こそりと深成が、真砂の後ろに回り、きゅ、とシャツを掴む。

 その様子に、真砂の六郎を見る目が鋭くなった。
 清五郎も、何かを察したような目で六郎を見る。

「ごめ~ん、深成ちゃん。どこに行ったかわかんなかったよ~。でも次あそこに用事のあるときは、おいらが取ってきてあげるからね!」

 大人な男たちの空気には一切気付かず、羽月が無邪気に言いながら駆け寄ってきた。
 その明るさに、ちょっと深成の気が緩む。

「う、うん。ありがとう」

 それでも真砂の後ろからは出ず、深成は羽月に礼を言った。
 目が真っ赤だ。
 羽月からすると、そんなに虫が怖かったのかと、きゅんとなる。

「任せて! 見つけたら、ちゃんと始末しておくし!」

 どん、と胸を叩く羽月に、深成はにこりと笑いかけた。
 そしてその様子を、一課のほうのブースから、顔半分出して、あきが覗いているのだった。

---課長ったら……。打ち合わせ中だっていうのに、深成ちゃんの悲鳴が聞こえた瞬間に飛び出して行くんだもの。まぁそりゃあ部下の悲鳴が聞こえたら、誰だって気にはなるでしょうけど、あそこまで血相変えて飛んで行かなくてもいいじゃない---

 どうやら真砂は、あきとブースで打ち合わせ中だったようだ。
 あきからすると、絶好のタイミングだったわけだが。

---それにしても、あの深成ちゃんの態度……。ほんとに虫?---

 目尻を下げて、真砂と深成から大分離れて戻ってくる六郎を見る。

---六郎さんの様子も変だわ。なぁんか、あったんじゃ~ないのぉ~?---

 にまにまにま、と戻ってくる三人を眺めているうちに、真砂はブースの前で、ぽん、と深成の背を叩き、席に促す。
 そして自分はブースに入って来た。

「虫が出たんですか?」

 目尻を下げたまま聞いてみると、真砂は、ああ、とだけ答えた。
 が、六郎がブースの前を通ったとき、ぎらりと視線がそちらに向く。

 その視線たるや、目が合ってしまうと、その瞬間に心臓が止まりそうなほどだ。
 殺気丸出しの視線に射抜かれた六郎は、こちらを見てもいないのに、ぶるっと震えた。

---おお、怖。もう課長、気持ちがダダ漏れですよ~っと。いやぁ、六郎さんって、なかなかいい起爆剤だわ。あの人の行動で、深成ちゃんと真砂課長の関係が、ぐっとわかるようになったし---

 それはあくまで、常にターゲットの行動がアンテナに引っかかるあきならでは、だと思われる。
 いろいろ聞きたいことはあるが、生憎真砂にそんなことを聞く勇気はない。
 それに今は打ち合わせ中だ。

 とりあえずあきは、今は仕事に集中した。



 深成はちらりと時計を見た。
 そろそろ定時である。

 席に帰っても六郎の席は深成の前なので落ち着かなかったが、幸い業務中は、六郎は特に何も言ってこなかった。
 心の中では、相当悶々としていたのだが、仕事中は仕事に集中する真面目な六郎は、努めて平静を装って定時まで乗り切ったのだが。

---どうしよう。私としたことが、思わず感情のままに行動してしまった。深成ちゃんを守ると誓ったばかりなのに、このままでは送ることも出来ないではないか---

 六郎のほうは定時が近づくにつれて、そんな思いが強くなる。
 どうしようか、と思っているうちに、定時のチャイムが鳴った。
 ちら、と深成を見ると、まだキーボードを叩いている。

「深成ちゃんは、残業?」

 六郎が声をかけた瞬間、ぴく、と深成の身体が強張った。
 それに目ざとく気付き、六郎は後悔に苛まれた。
 警戒されてしまっている。

 ちら、と深成が視線を上げ、こくりと頷いた。

「どれぐらいかかる?」

「もうちょっとだけど」

「じゃ、待ってるよ。送るから」

 深成が顔を上げた。
 少し考える素振りをし、こくりと頷く。
 断られそうな雰囲気だったので、六郎はその意外な深成の反応に嬉しくなった。

 それから三十分後、深成は仕事を終えた。
 業務報告をまとめていた六郎は、それを真砂に提出する。

「……仕事自体は、もう全く支障ないな」

 六郎の報告書を見、真砂が言う。

「いえ。やはり営業は奥深いです。自分で新規客を獲得出来るかと言われれば、まだ自信はないですし」

「自分から新規客を得ようとする業界でもないだろう。高山建設であれば、顧客も多いだろうし。三か月もいらんような気がするな」

「え、でも。まだ流れがいまいちわかってないと思いますし」

 何となく研修を打ち切りそうな真砂に、六郎が食い下がる。
 今や六郎は、仕事よりも深成を守ることのほうが重要なので、あまりとっととここから出されても困るのだ。
 真砂は、ばさ、と報告書を置くと、じ、と六郎を見上げた。

「来週から、常に俺について回れ。大まかな流れはわかっているだろう。あとは自分で見てものにしろ」

 そう言って、真砂は深成を見た。

「俺の予定表を印刷して、こいつに渡しておいてくれ。とりあえず、今月分」

「あ、はい」

 深成がPCを操作して、プリンタに走った。
 すぐに何枚かの紙をまとめて持ってくる。

「はい、じゃあこれ。一枚が一週間分のはずだから」

 ぱちん、とクリップで留めた予定表を六郎に渡す。

「予定が変わったら、都度教えてやってくれ」

 真砂に言われ、深成はこくりと頷く。
 渡された予定表には、朝から晩まで、ぎっしりと予定が詰まっている。
 把握するだけで精一杯だ。

「こ、これを元に、私の予定も組んでいくわけですか」

 六郎がちょっと焦ったように言う。
 真砂は何てことのないように、すでに目はPCに落としつつ答えた。

「そうなるかな。でもそれも、大まかな予定だからな。結構変わるし、その都度臨機応変に対応すればいい。それをがっつり頭に入れた上で、きちきちっと自分の予定を組んでいっても、変更できないようでは困るぞ。業務報告は、その中で自分で時間を見つけて作って行け。毎日の報告はいらん。俺についているからな。それと合わせて、企画を一本考えて貰おうか。俺と回った客の中から一つ選んで、そこに提案するなら、というテーマで何か考えろ。企画案からそのスケジュール、予算など全て」

「ええっ! この上に、企画もですか。でも企画といっても、まだどういうものか……」

「客を見ていれば、それぐらいわかるだろう。うちの商品もどういうものかわかっているだろ? それさえわかれば簡単だろ」

 するするとこういうことが出てくるということは、真砂はこうやって捨吉やあきを育ててきたということだ。
 基礎の基礎だけを教えて、後は自分の力でものにする。
 それが出来ない者はいらないのだろう。

「期限は来月末。以上だ」

 呆気に取られる六郎を見もせずに、真砂は話を打ち切った。
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