先生がくれた「明日」
「もうすぐ、着くよ。」


「歩に、会ってくれないの?」


「歩にはもう会わない。」



先生は目を伏せて言った。


そうだね、それがいい。

今の先生に会ったら、歩はきっと何かに勘付いてしまうだろう。

そうでなかったとしても、さよならを言うのもおかしいから―――



「歩を、迎えに行くんだろ?」


「うん。」


「じゃあ、荷物を置いてから、途中まで一緒に行こう。」


「……うん。」



もしも、これで最後になってしまったら。

恐ろしい思いに、肩が震える。


明日学校に行ったら、そこに先生はいるよね。

会えない、というのは、私と二人きりで会わないってことだよね――――?


荷物を置いて玄関から出ると、薄く微笑んだ先生が待っていた。

車はもう、自分のマンションの駐車場に移動させてあった。



「まだ時間があるだろ?」


「うん。あと30分くらい。」


「遠回りして行こう。」



路地に入ると、先生は私の手を取った。

先生の手の温もりが、余計に切なくて。

せっかく止まった涙が、また溢れ出しそうになる。



「どうしても、伝えたかったんだ。」


「ん?」


「莉子、ありがとう。」


「どうして?」


「……どうしても。」



先生の横顔が、泣いていた。

夕暮れの街は黄昏色に染まって、先生と私を包んでいる。

好きなのに、大好きなのにさよならをする私たちを、優しく包んでいた。



「先生。」


「ん?」


「一つだけ、訊いていい?」


「……うん。」


「先生、私といて、幸せだった?」



先生は、笑った。

今まで見てきた中で、一番温かく。

それでいて、一番切なく笑った。



「ああ。幸せだった。」



その言葉だけで、十分だよ先生。



「そこの角を曲がると、小学校だな。」


「うん。」


「じゃあ、……元気でな、莉子。」


「先生も、」



その後に続けるべき言葉が浮かばなくて、私は口を噤んだ。



「歩に、よろしくな。……さようなら。」



そう言って、私に背中を向ける先生。

その背中を、痛いほどに見つめる。

苦しい。

胸が切り裂かれるように、ヒリヒリと痛い―――


遠ざかる背中に重なって、これまでのことが走馬灯のように私の目の前に浮かんだ。


いつもどこか、儚げだった先生の、優しい眼差し。

そして、泣きそうな横顔。

歩に向ける、無邪気な笑顔。

私の合格を、誰よりも喜んでくれた先生。

歩を、取り返しに行こうと言ったときの、厳しい目。

懐中電灯の「ア・イ・シ・テ・ル」。

線香花火を人生みたいだと言った、先生の悲しい悲しい顔―――



「先生!」



呼びかけて、走って。

小さくなったその背中を、全力で追いかけた。


そして、私はその背中に飛びつくように抱きついたんだ。



「駄目!やっぱり駄目!」



そんなに冷静に、さよならできるほどの簡単な恋じゃない。

こんなために、愛してきた先生じゃない。



「莉子、言うな……。」



先生は、振り返らずに。

ささやくように言った。



「俺だって、行きたくないんだよ。」



その弱々しく震える声に。

はっとした。

何してるんだろう、私。

先生を苦しめないって、そう決意したばかりなのに。



「ごめん、先生。もう言わないから。これで最後にするから……。最後に、キス、して。」


「莉子……」



先生の温もりを、一生忘れたくないの。

お願い、先生―――



先生は振り向いて、私を真正面から抱きしめた。

そして、悲しい顔のまま私の唇を奪った。

先生の頬の涙が、私の涙と混ざり合う。

そう言えば、先生との一度きりの過ちのときも、私たちは泣いていたね。



「もう、行かないと。歩が待ってるぞ。」



唇を離した先生が言った。

私は、息を整えながら頷く。

先生の目をじっと見ると、そこは昨日見た海のように、蕩蕩と水を湛えていた。



「さよなら、先生。」


「ああ……さよなら。」



今度こそ、私から先生に背を向けて歩き始めた。

熱い涙が、両方の頬をとめどなく流れていた。

今度は、先生の切ない視線を、背中に感じながら―――
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