バターリッチ・フィアンセ
熱気のこもるnoixの厨房も、夏場よりは少しましになってきた九月下旬のこと。
最終発酵まで済んだシナモンロールの表面に刷毛で卵を塗っていた私に、昴さんがこんなことを言った。
「それ、オーブンに入れたらちょっと店の方行っててくんない?」
「……はい。でも今、お客さんいないみたいですけど」
いつもお客さんの出入りが落ち着く午後の時間帯だったし、お店と厨房を隔てる扉の窓から見る限り、お客さんは来ていない。
「いーから。新作がやっとできたっぽいんだけど、織絵には当日まで見せたくないんだ」
「え、とうとうできたんですか! なおさら見たいです……!」
「ダーメ。客いなくてもやることはあるだろ」
帽子の上からぽすんと頭を小突かれて、口を尖らせる私。
パーティーまではあと三週間も日があるのに、それまで新作を見るのがおあずけだなんて……
とぼとぼとお店に出て、商品ごとの売れ行きをチェックしながら、棚に落ちたパンの欠片やこぼれたソースを片づけてまわる。
こんな風にふと一人になる時間が与えられると、できるだけ忘れていようと日々努力している昴さんの本心が脳裏をよぎり、棚を拭いていた手がぴたりと止まる。
――実家を訪れた後も、昴さんの様子は変わらない。
父の日記に書いてあったことは嘘なんじゃないかと思いたくなるくらいに、私に優しく、愛情を注いでくれている……ように、見える。
それがすべて演技だとしたら――そう思うと悲しくなってしまうので、あまり考えないようにはしている。
だけど、今の穏やかな幸せは永遠には続かない気がして、時折大きな寂しさの渦に飲みこまれそうになる。
もちろん昴さんの前では平気な顔をするし、忙しさの中に身を置けば一時的には忘れられるのだけど――。