バターリッチ・フィアンセ
一志は馬鹿な男ではなかった。
俺のひと言で状況を察したらしく、俺の母と一志の妻を担当したあの医師の元に説明を求めに行った。
そしてあの時の自分の行動で数分ながら俺の母への処置が遅れたことを理解すると、俺に対しその場ですぐに詫びた。
もちろん医師の方は、あの数分間が本当に母の命を縮めたかどうか定かではないし
今となってはもう調べようもないと説明し、医師としての自分の無力さを謝罪するとともに、俺にはどうにか怒りを鎮めて欲しいと頼み込んできた。
……が、言われるまでもなく、俺は医師を恨んではいなかった。
あのときの理性を失った一志の口車に乗せられて、金でも受け取っていたなら彼も憎しみの対象になっただろうけど……
俺の見る限り、彼は母の命を繋ぎ止めようと、全力を尽くしてくれていた。
だから俺はその場では納得したフリをして、病院の廊下の一角で再び一志と二人になると、その背中に声を掛けたのだ。
『さっきの――――、ただの脅かしじゃありませんから』
振り向いた彼は、怯えたような表情で言う。
『何が望みだ……?』
『……あなたの好きな“お金”でないことは確かです。……家族は?』
『……娘が、三人……』
ああ……霊安室から出てきた三人の女は娘だったのか。
ふうん……娘、ね。――それも、いいかもな。
『まさか、娘たちに何か危害を……』
『……さあね。でも、どちらにしても今すぐじゃないんで安心してください。俺がまずやらなきゃいけないのは、母との約束を果たすことだから』
無事に学校を卒業して、一人前のパン職人になって。そして――“noix”を開店させるまでは、余計なことを考えたくない。
母の望みを叶えて、仕事が軌道に乗ったなら、その時が復讐の機会……俺はそう思ったのだ。