喩えその時が来たとしても
 
 散策をしながら俺は、ふと馬場めぐみの事を思い出していた。あの透き通るような白い肌、色の薄い虹彩、花の香りにミルクが混ざったような彼女の匂い。

 スベスベの皮膚、柔らかくて細い髪の毛、細くて長い指。

 そして甘ったるい声。

「先輩……」

 そう。付き合ってるのにいつまでも俺の事を先輩って呼ぶんだ。俺は哲也って名前で呼んで欲しかった。いや、なんならテッチンでもテッさんでもいい、とにかく不特定多数を表す先輩という呼び名から卒業したかったんだ。

「先輩……ねえ先輩……」

 馬場めぐみの声が頭の中で反響する。だが駄目だ、それだけはいけない。まだ問題は何も解決してはいないのだから……。

「先輩ってば……、哲也!」

 そう、そう呼んで欲しかったんだよ。……え?!

「ば、ばばば馬場ばば……」

「さっきから呼んでるのに、振り向いてもくれないんだから!」

「なんで居るんだ。めぐ、どうしてここが解った?」

「私も一切の繋がりを断たれた時は途方にも暮れたわ。自棄になって貴方を忘れようともした。……でも無理だったの……」

 俺達は朝の商店街で人目を憚る事もなく抱き締め合った。ヒューヒューと冷やかしの口笛を吹きながら、高そうなロードレーサーに乗ったサイクリストが通り過ぎる。

 俺と馬場めぐみは店と店の隙間に入り込み、お互いの唇を、唾液を、そして舌を貪り合った。今まで経験した事のない甘い甘いキスだった。

「ねえ……私……哲也って呼んでもいい?」

 一頻り情熱の交換を終えると、馬場めぐみは糸を引いた唇を離して囁く。

「勿論だよ、俺もずっとそう呼んで欲しかったんだ、めぐ」

 そう返した俺だったが、もう一度俺に抱き付こうとする馬場めぐみを見ると身体の熱が一気に引いて行った。俺のすぐ後ろに突っ込んできた車を、そこに血まみれで横たわる彼女の幻影を、まざまざと思い起こしてしまったからだ。

「めぐ駄目だ。俺の悪運でめぐを巻き添えにしてしまう」

 突き飛ばすように彼女を退けた俺に対しても、馬場めぐみは唇をへの字に曲げて怯まず向かって来る。こんな恐い顔をした彼女は初めてだった。

「そんなのどうでもいい! 哲也を失っても生きて行かなきゃいけない未来が辛いのっ!」

 言い終わるや否や馬場めぐみは、顔中を真っ赤にして号泣した。そんな彼女を見ていると、俺も涙を溢さずにはいられなかった。


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