脳電波の愛され人

一泊

おにーちゃんは言っていた。
「親につけられた名前はどんなことがあろうと、忘れたら駄目だよ。
たとえ酷い名前をつけられて、友達に名前をもらったとしても、だ。
世の中には、名前すらもらえない子だっているのだから。」と。
僕は名前を忘れてしまった。恐らく思い出すことはできない。
時流しされた者は、名前を奪われてしまうのだ。いや、正式には強制的に忘れさせられてしまうのだ。
時流しされたあとは、名前に関する記憶もなければ、きっかけもない。

僕はおにーちゃんに訊いてみた。
「おにーちゃんの本当の名前はなに?」と。
小学一年生の秋ごろだろうか。
小学生になる前までは「おにーちゃん」という固有名詞だと思い込んでいた僕だが、小学校の国語の授業で「お兄さん」という単語を習ってから、疑問を抱き始めたのだった。
おにーちゃんは表情が見えないくらい深く帽子を被っていたにもかかわらず、どこか悲しそうに木の枝を見上げながら、
「ずーっと前に母から名前をもらったはずなのに、どうしても思い出せないんだ。」と呟いた。
だからだろう。名前を忘れるなというのは。自分が体験したことを僕に体験させたくないのだろう。
忘れてしまったのなら、新しく作ればいい。
おにーちゃんに名前をつけてあげようと言うと、
「ありがとう。でも、多分僕は、忘れてしまうと思うよ。
実際つけてくれた人はいたんだ。でも、その名前も忘れてしまった。とても単純で、覚えやすい名前だったのに。
実に悲しいことだね。」と、寂しくポツリと言った。
僕はおにーちゃんが忘れないように紙にクレヨンで大きく幼稚園児らしい字で、「おにーちゃん」と書くと、セロテープでおにーちゃんにくっつけた。
「ありがとう。とても嬉しいよ。」
表情は見えないのに、とても嬉しそうだった。声がそう聞こえた。

結局、名前なんてどうでもよくて、呼べれば何でもいいと思っていたけど、よく考えれば名前があるというのは、自分がここに存在していることの証明のひとつで、親が自分にくれた、自分だけの大切なものなのだ。
自分の名前を嫌うのは仕方がないけれど、名前を忘れてはいけない。

ピンポーン。
チャイムの音が響いた。
バタバタという足音もする。
そして畳の上でいつの間にか倒れていた僕の上に重たいものが被さる。ふわふわしていて、いいにおいがするものだ。
「部屋にあった服をまとめて持ってきました!今日は千草の部屋でお泊まり会です!」
僕は僕の上に乗っているものを見た。
白いブラウスや紺色のスカート、……下着が混じっていたが、触れないでおこう。
「さぁ、この中から選んでください。」
選んでくださいと言われても、全て白いブラウスと紺色のスカートだ。違いといえば、見分けられるか見分けられないかくらいの装飾だけだ。……ボタンも少し違うかな?
できればスカートははきたくなかったが、今の格好よりはいいだろう。どちらにしろスカートなのだし。
「ほい、俺のも持ってきてやったぞ!」
声がしたかと思うと、僕はまたバサバサと頭から布を被った。今度は結構薄い青に、黒っぽい緑、少し暗めの赤などの、色々な着物だった。袴はなく、全て丈の長い着物だけだった。
「俺のを着ろ。スカートなんざ嫌じゃろう?」
確かにスカートは嫌だけど、僕にこの着物は大きすぎだと思う。
「何いってるのですか。黒は私の服を着るのですよ。」
「そんな女物、いくら姉御のものでも可哀想じゃろう。」
「別にいいじゃないですか。丈はちょうどあいますし。」
「でも俺のを着るべきじゃろう。さすがにスカートは駄目じゃと思うし。」
「でも現にスカートじゃないですか。」
口喧嘩が始まった。こういうときは止めた方がいいのだろう。そう、なるべく、スムーズに。
ちょうど義人が「しかし……」と反論しようとしたときだった。
僕はいまだと思い、二人の会話の途中に言葉をはさんだ。
「あの、そういえばはじめ、義人は罪人に紛れ込んでたよね。あれは何で?」
うまいこといったのだろう。会話は中断された。そして、義人は頭をかきながら「おう、あれか……。」と一生懸命思い出しているようだった。
「あれは確か、姉御に『罪人に紛れ込んで、罪人のなかに役に立ちそうな者はいないか事前に確認しなさい。』と命令されたのだったかのう。
まぁ、結果はあんたが見つかってラッキーだったのじゃが、他にもあんたを狙っておったとは。
まぁ、愛される奴を放っておく方が不思議なのじゃがな。」
義人はケラケラと笑った。
……あのとき千秋に蹴られたのは、黙っているのか忘れているのか。
とりあえず喧嘩を止められたので、結果オーライだ。
しかし、僕はこの喧嘩が再開する道以外を通れないことに気づいた。
「で、服はどちらのを着るのじゃ?あんたが好きに選んでくれ。」
「別にスカートでもいいですよね?サイズぴったりですし。」
二人に攻めるように言い寄られた。
僕は選べなかった。
正直言って義人の服のほうがいいけど、千秋は逆らったら逆らったで怖そうだ。
「あの、どっちでもいい。」
僕はひかえめに答えた。
そして、予想した通り、再び喧嘩が始まった。
言葉と言葉が飛び交う中、その流れを中断させたのは、千草だった。
「二人ともやめんか!ここは暴力かジャンケンで決めんか!」
ジャンケンというものは、こちらでは暴力と同じくらい納得のいくものなのだろう。
どちらにしろ、僕にはわからないことだった。
「警察にまた行くのもめんどいから、ジャンケンにしようや。」
「そうですね。ジャンケンにしましょう。」
どうやら利害一致したようで、二人はジャンケンをするために、手を差し出した。
掛け声と共に出された手は、両方とも指が全て閉じていた。
あいこになった場合はもう一回ジャンケンをするというわけではないようで、二人とも手を下におろした。
「こういう場合はどうするの?」
僕は気になって訊いてみた。
ここのジャンケンのルールはいまいちわからない。グー、チョキ、パーとは言わないらしいし、そもそも掛け声が「さん、にー、いち、れー!」だ。
なのにこの動作の名前はジャンケンというらしい。
無駄話をすると、どうやらここでは、グーを亀、チョキを兎、パーを蟻と見立てているようだ。
聞く限りでは、こんな話があるらしい。
亀と兎の対決では、亀はこうらにこもり、何もできなかった兎は諦め、敗けを認めた。
兎と蟻の対決では、兎がうっかり蟻を踏んでしまい兎が勝った。
蟻と亀の対決では、こうらにこもった亀を、蟻がこうらの内側に入り肉体を貪ったそうだ。
だから、亀のこうらのように、こぶしを握った形は、兎が耳を伸ばしたように、人指し指と中指だけを立てた形に勝ち、人指し指と中指だけを立てた形は、蟻が足を広げたように、全ての指を広げた形に勝ち、全ての指を広げた形はこぶしを握った形に勝つのだ。
……長い無駄話だと自分でも思うくらいしてしまった。
しかし、いうほど時間はたっていない。
これは頭の中で一瞬で考えたことを文章につづっただけなのだから。
「あいこの場合は暴力になるのじゃが、今回はもう夜じゃし、一応、弟のを着ろ。さすがに女もんはかわいそうじゃしなぁ。」
そういって千草は義人の服の山から、黒い着物をつき出した。
「でも、私の服でも……」
千秋はそういいながら自分の服をとろうとしたのだが、あるものに気づき、慌てて服の中に飛び込んだ。
……飛び込んだ先に僕の腕があったのだが、言わないでおこう。別に痛くもなかったし。
「どうしたのじゃ?」
千草が心配そうに声をかけた。
千秋は顔を真っ赤にしながら、「何でもありません!」と叫んだ。
明らかに何でもないという言葉は似合わない雰囲気だ。
「義人の服でいいですから、黒さんは早くお風呂に……」
そう言おうとして、僕を振り返ったときだった。
身動きがとれない僕の顔の近くに、千秋の赤い顔があった。
遠心力に耐えられなかったフワッといい香りのする髪が、僕の顔に触れた。
牢屋で嗅いだ、あの香りだ。
近くといっても二十センチメートルくらいだが、その距離にびっくりしたらしく、千秋は赤い顔をさらに赤く染めながら、僕の近くから離れた。
僕は首をかしげた。そんなに嫌わなくたっていいじゃないか……。
僕は悲しくなりつつ、服に埋もれている状態から脱出した。服を踏んだような気がするが、無視しよう。

僕は着物を受け取ると、くちゃくちゃになっているのを広げた。やはり僕には少し大きいようだ。
「さっさと風呂に入ってこい。こやつはわれが何とかしてやる。」
僕はうなずいた。そしてタオルをもらうと、お風呂に向かった。
しかし、場所がわからないことに気づき、急いで戻って義人にお風呂場の場所を訊いた。
右側の二番目のドアだと言っていたから、右から二番目のドアを開けた。
そこには和風には似合わない、洋風な雰囲気の白い部屋が広がっていた。
結構広く、洗濯機と、脱いだ服を入れるかごと、これから着る服を入れるかごが隣合わせに並んでいた。
僕は服を脱いでかごの中に放り込むと、ドアごしにある浴槽へと足を運んだ。
お風呂に入るのはかなり久しぶりだったから、少し……いや、かなり楽しみにしていた。
おそるおそるドアを開けると、白い煙がフワッと僕の後ろへと引き寄せられていった。
白い煙で何も見えなかったものが、だんだん見えてくるようになった。
湯槽とシャワーは別になっていて、二畳くらいの湯槽には、なんとも可愛らしいアヒルのおもちゃが浮かんでいた。
僕は浴槽に入ると、近くにあった桶でお湯をくみ、体を洗い流した。
じわじわっと僕の体に温かいものが伝わると同時に、熱すぎて、痒みが一気におそいかかってくるかと心配になった。
しかし、温度はちょうどよかったようで、僕の周りから消されることはなかったようだ。
僕は湯槽に浸かった。
ちょうど目の前に浮いているアヒルのおもちゃが僕の方へ来たかと思うと、今度は僕から離れていってしまった。
僕はお湯の中に潜った。
僕はお湯の中に潜るのが昔から好きなのだ。
僕は、無意識のうちに数を数えていた。いつもやっている癖がでてしまったのだろう。
……四百、四百一、四百二……
単位は秒単位だ。
少し早く数えているのだろうか。いつもは六十くらいなのに、今日はずっと潜っていられる気がした。
これはこれで気持ちがよかったから、水面からあがることを体が拒否していた。
ずっとこのままでいられたら、何ていいだろうか。
多分、今の僕には可能だろう。
しかし、この思いも、すぐに引き剥がされてしまった。
腕をグイッと上に引っ張られる。
その力に身を任せると、僕は水面の上へと顔を出した。
「よかった!脳電波は止まっとらんようじゃな!われに心配かけよって!」
千草だった。袖をまくり、裾は濡れていた。
千草は安心したように、長いため息をついた。
「まったく、帯を忘れておるぞと声をかけてみたが返事がなく、浴槽に入ってみたらこの始末。一瞬死んだのかと思ったぞ。」
千草は僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。ペッタリくっついていた髪は、一度持ち上がったが、また重力と水分でペッタリとくっついてしまった。
僕は疑問に思ったことを訊ねた。
「僕の再生された細胞って、どこ?」
千草は、急に訊かれて少し驚いた。
こんなことを訊かれるとは思っていなかったのだろう。
大きなことから些細なことまで全て覚えてしまう彼女には、一部を絞り出すということは難しいのだろうか。少し考えながら、頬に手をあてた。
しかし、数秒もたたないうちに、彼女はしゃべりだした。
「再生された細胞は、脳と、感覚器官、一部の神経、筋肉じゃな。それ以外は全て停止しておる。
ちなみに、なぜ筋肉などの細胞に酸素を回さなくとも筋肉は動くのかというとじゃな、千秋の母親がおぬしの体に無限ループをかけたからじゃ。
それと呼吸をしなくとも大気圧に耐えれる理由もそやつのせいじゃ。」
訊いていない範囲も教えてくれたが、それは彼女の親切心だろう。
とにかくこれで水中でも苦しくない訳がわかった。
僕は呼吸をする必要がない。だから苦しくなかったのだ。
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