脳電波の愛され人
水圧で苦しく感じなかったのも、恐らく義人と千草が言っていた人のせいなのだろう。
僕は首までお湯につけた。
そう、ついさっきまで上半身がお湯の外に出てしまっていて、空気に触れていた部分が冷えてしまっていたのだ。
「着物の帯はここにおいておくからのう。
それと入浴剤は自由に使っていいぞ。」
千草はそう言い残すと、浴室から出ていった。
バタンッとしまったドアでしょうじた風が、僕の頬に触れた。
僕はその風で冷たくなった頬を温めるように、お湯の中に潜った。

「お風呂出たから。」
僕は、変えられなくなってしまった黒くて長い髪を拭きながら、ドアを開けた。
「おう!黒も早く夕食にせい!今日は肉じゃ!……って!どうしたのじゃ!その着物は!」
早速飛び込んできたのは、義人だった。
どうやら着物の着方が間違っていたらしい。彼はムッとした顔で怒った。
「着物の裾を引きずるな!裾は引きずらないように、帯のところで調節するせい!」
そういって、義人は僕の足元を指差した。
僕は急いで裾をあげると、帯の上に出した。
「そもそも帯の結び方が違う!これじゃあすぐほどけてしまうぞ!」
義人は僕の帯を指差した。
僕は慌てて帯をほどくと、蝶々結びをした。
慌てていて、なかなか上手く結べなかったが、まぁ大丈夫だろう。
しかし、現実は甘くなかった。
「そんな結び方でどうする!
そもそも着物の重ね方が反対じゃ!それは死んだ方がする重ね方だ!」
また怒鳴られた。
まぁ仕方がないだろう。着物なんて、初めて着るのだから。
「もう一回着付け直してこい!」
義人はぐいぐいと僕をお風呂場の方向へと押した。
僕は何もできずにただ押された。
「いい加減にせんか。」
この部屋を出ようとしたときだった。
後ろからとてつもなく黒い声が聞こえた。
このしゃべり方は恐らく千草だろう。
千草は顔をあげずにしゃべり始めた。
「さっきから聞いとりゃあ、着物の着付けだの何だの。
そんなん言うて黒を困らせるんゆうたら、いっそのこと黒に着物を着させるな。」
千草は、ゆっくりと顔をあげた。
とてつもなく怒っていたのかといえばそうでもなくて、いたって普通の顔だった。
「……おう、すまん黒。
つい俺な、着物のことなるとこうなってしまうんやわ。
もう俺は口出しせんわ。着物だって自由に着たらええ。
……なんなら姉御のを着てくれたってかまわん。」
義人はしょんぼりした。
そして、夕食の席につくと、無言でテーブルに置いてある肉をパクパクと食べ始めた。
僕はだんだんほどけてきた帯をおさえた。
ここで義人に着付けを教わるのもいいなという思いと、このままでもいっかという思いが同時に浮かんだ。
「私の服を着ますか?」
着物の帯がほどけているのに気がついたのか、千秋が声をかけてくれた。
「そうじゃな。そうするといい。」
千草も上から重ねた。
確かに着物よりは楽かもしれないが、スカートというのはちょっと……。
僕は少し目をそらしたりしながら、何とかはぐらかす方法を考えた。
「そういえば、入浴前騒いでたあれ、なんだったの?」
僕は話をそらすため訊いてみた。
話をそらせば何とかなる気がする。
「えっとですね……あなたには関係のないことです。」
千秋は頬を赤くしながら、こっちをじっと見つめた。
そんなにばれないかどうかが気になるのだろうか。
「ああ、あれはのう、千秋の下着がそこ……」
千草が話し始めた途中で、千秋が急に叫んだ。
それも何かに驚いたのではなく、まるで千草の声を打ち消すみたいにだ。
僕はびっくりしてとっさに目をつぶってしまった。
「うるさいのう、千秋は。
そんなに話して欲しくないんか?
まぁ、そりゃあ話してほしくないわなぁ。黒に嫌われるかもしれんからなぁ。」
千草がニヤニヤしながら、千秋の方を見つめた。
千秋は、顔を縦に振ったり横に振ったりで訳がわからなかった。
どうやら自分のプライドと戦っているらしい。
……髪がまとわりついているのが、少し妹に似ていた。
「とにかく、これを着てください!」
僕は千秋から服を押しつけられた。
千秋は下を向いていたので表情は見えなかったが、耳まで赤くなっていたことは確かだろう。
僕は仕方がなく服を手に取ると、お風呂場に向かった。

案の定、服は僕にピッタリで、とても着心地がよかった。この生地の感じか僕は好きなのだ。
「サイズはちょうどいいようですね。思った通りです。
それと黒さん、今なら女性と偽っても問題ありませんよ。」
誉めているのかけなしているのかわからないが、女性みたいだというのは確かだろう。
嬉しくないが、なんだか少しおもしろい。
「おお!おお!おお!!」
義人は感動のあまり言葉をなくしてしまったらしい。中学生好きにもほどがある。
ちなみに言っておくが、僕は高校生だ。
たまたま人より成長が遅く、たまたま成長前に二度と変化しない体にされてしまっただけだ。
ちゃんと頭脳的には高校生だ。
「ね、私の服を着せて正解だったでしょう?」
千秋は自慢気に腕をくんだ。
「ああ!」
義人は素晴らしい笑顔で千秋に顔を向けた。……二人でそういう会話はやめてほしい。
僕はとりあえず、畳の上に座った。
スカートがフワッとまうことが心地悪かったが、我慢した。
スカートは前着ていた服と丈があまり変わらず、膝くらいだった。
この服は実を言うと僕の好みの系統の服だが、紺色の小さい帽子があれば、もっといいだろう。
「黒、夕食にするから席につけ!」
いつの間にか言葉を取り戻した義人が僕を呼んだ。
僕は立ち上がると、テーブルの側まで行った。
ひとつだけ空いている食事がある。恐らくそこが僕に用意された食事なのだろう。
僕は椅子がないことに気づいたが、無視して椅子のないところに膝を立てた。
「なんじゃ?椅子が無いんか?」
気づいた義人が声をかけてくれた。
僕はうなずくと、たててた膝を戻して立ち上がった。膝が少し赤くなっている。
「黒は夕食を食べることはできんぞ。」
急な千草の言葉にビックリした。
もちろん続きを聞かないわけにはいかず、千草にその話をするように促した。
「風呂のときにいったじゃろう。おぬしは脳とかしか動いとらんのじゃ。
胃や腸も動いていない部分のひとつで、飲み込んだらその場で腐っていくのじゃ。
まぁ、嫌でないのなら食べてもかまわんが。」
僕は首を横にふった。
食べ物を食べているときが一番ストレスを感じなかった僕にとっては、とても卑劣な話だった。
しかし食べると食料を無駄にするだけなら、食べないほうがいいのだろう。
僕は料理が乗っているお皿を義人のほうへ持っていった。
義人はなぜかお礼を言って、もう空っぽになった自分の皿と交換した。
僕はお礼を言った。義人は首をかしげたが、僕が「僕が残した給食を食べてもらっているみたいな感じ。」と言うと、納得したようにうなずいた。

みんなが食べ終わった後、僕はみんなのお皿を片付けた。
義人は休むように言ってくれたが、僕だけ何もしないわけにはいかなかったのだ。
千秋は洗濯、千草は風呂掃除をして、義人は畳の上で死んだように寝転がっていた。
僕がお皿を洗い終えると、義人がテレビゲームに誘ってくれた。
僕はコントローラを手に持つと、後の操作は義人に任せた。
ゲームは格闘ゲームみたいなものだった。僕はあっさり負けてしまった。
「貸してください。私がやります。」
いつの間にか洗濯を終えた千秋が話しかけてきた。洗濯から脱水まで全自動の洗濯機だから操作は楽だったのだろう。
僕は千秋と場所を交代しつつ、コントローラを渡した。
千秋は得意そうにコントローラを動かしてみせた。
しかし、義人に勝てず、コントローラを床に置くと、ため息をついた。
「もう一回です!」
千秋はさっきのため息は何だったのかと言うくらいに、義人をキッと睨み付けた。
義人は軽く笑い流すと、ゲームをスタートさせた。
その勝負も千秋は負け、「もう一回です!」と義人にせがんでいた。
「姉御、『二度あることは三度ある』ですよ。」
義人はそういいつつも、ゲームを始めた。
僕はそんな二人を畳に座って見ていた。
スカートがスースーして気持ち悪かったが、明日までの我慢だ。
「あやつもなかなか懲りんのう。
義人に格闘ゲームで勝とうというのは無理なことじゃろうに。」
僕のすぐそばに千草が座りながら呟いた。
その眼差しは、まるで小さい子供をみる大人の眼差しだった。
千草はこっちを見ると、にこりと笑った。
「おぬしもひまじゃろう。
どうじゃ?ここはひとつ、囲碁でも打たんか?」
千草は僕に進めてきた。まるでお爺さんの用だ。
僕は、囲碁なんて名前くらいしか知らないので、戸惑いつつも断った。
千草は少し悲しい顔をした。しかし立ち直って「王様ゲームをしよう」と進めた。
僕が断ろうとする前に、二人では意味がないと気づいたのか、またがっくりした。
そして何を思いついたのやら、ゲームに負けて再度勝負を申し込んでいる千秋と、さすがに無理だと断っている義人に内緒話をした。
「………で…、き……ば……」
「おう!わかった!」
「つまり、千草さんが黒さんをつれ……」
「しー!声が大きい!」
こんなやり取りをしていたが、僕にはさっぱりわからなかった。
義人と千秋の二人はそそくさと外に出ていくと、「じゃあのう!」と言って僕と千草を部屋に残した。
「あの、今から何かするの?」
僕はどうしても気になって訊いてみた。
千草はにかっと笑った。こういう笑ったところが、本当に姉弟だなと思う。
「『肝試し』じゃ!」

僕たちは外に出た。
季節は冬なのだろうか、千草のはく息が白く変化していた。
僕も息をはいて白くなるところを見ようと、思いっきり息を吸った。しかし、あることに気づいた。
僕は呼吸ができてないのだろうか、冷たそうな空気の温度が全く感じられないのだ。
そもそも僕には体温があるのだろうか、そこから気になってしまった。
「あの、僕には体温があるの?」
千草は、寮の前に広がる林を見つめるのをやめて、こちらを振り返った。
「あるぞ。じゃないと筋肉が動かんじゃろう。
まぁ、周りの温度で低下することはないようじゃがな。千秋がそう設定したせいでのう。
ちなみにおぬしの周り2ミリ程度は現在真空状態じゃ。空気がおぬしの体温を変化させてしまうでのう。」
僕は手を顔に当ててみた。
少し温かく感じるのは、気のせいなのだろう。
僕は少し悲しくなりつつも、少し人の温度が感じたくて、千草の着物の肩の部分を少しさわった。
着物は温かいのだろうか、ひんやりと冷たいのだろうか。何も感じないまま、触れた部分が消えてしまった。
そして今気づいたのだが、その消えた着物の下に、千草の柔らかな肌の一部が覗いていた。
千草はそれに気づいたのか、破けたと思ったのか、慌てて手で隠した。
「あの、ごめん。」
僕はうつ向きつつ謝った。
「大丈夫じゃ。気にするな!」
千草は笑って許してくれた。
それは僕をさらなる謝罪の気持ちに追いこませた。
「本当に申し訳ない。」
僕は呟いた。
その呟きを消すかのように、千草がよく通った声をだした。
「さて、もうそろそろいいじゃろう。
それにしても、もう春を迎えてから数日たつのに、一向に夜は暖かくならんのう。」
本文に一言多いのが特徴なのだろうか。
でも、そのおかげで、僕は謝罪の気持ちから解き放たれた。
僕は千草から出る白い息を見つめた。
そして、はぁ、とため息をはいた。
ため息は酸素の量や温度が変わらなかったのだろう。白く変化することなく、空気中に戻った。
今の僕の肺は、いわゆる瓶やビニール袋と同じ役目なのだろう。
僕は、僕が千草に嫉妬を抱きながらも、なぜか安心の気持ちを抱いているのに気づいた。
僕はその気持ちを振りはらった。
意外と簡単に振りきれてしまったことに、少し疑問を抱いた。
しかし、それが普通なのだろう。
相手が僕に抱く感情も、そんなものなのだろう。
寝たらすぐに忘れてしまい、気づかずに終わってしまうこともあるような、そんな薄い感情。
人が軽い冗談を言うときに抱くような感情なのだろう。
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