ストックホルム・シンドローム
ベッドからゆらりと立ち上がり、少しふらついた沙奈を、抱きしめる。
「…本当に、ありがとう…」
「…喉、渇いちゃった」
沙奈が色っぽく、僕の耳元で囁く。
「…おいでよ。もう一度、コーヒーを淹れるから」
沙奈から手を離し、僕は堪えきれずこぼれ落ちた涙を拭うと、扉へと足を向けた。
床に広がったコーヒーは、後で掃除をしなきゃいけないな。
でも、今は。
沙奈との幸せをただ、感じていたい。
「あぁ、そうだ。ナイフには気をつけて、さな…」
銀色に鋭く輝くナイフのことを思い出し、僕は、振り向いた――。
「…っ、あ"…ぐっ…」
…あつ、い。
僕は目を見開き、突然 火を当てたように
熱くなった自分の腹に視線を向ける…。
そこから飛び出していたのは、僕の持っていたナイフの柄。
柄を、握りしめるの、は…。
「…やっと…あんたを"殺せる"」
沙奈が、無邪気に、笑った。
沙奈がナイフから手を離すと、熱さが、
こらえきれないほどの痛みに変わった。
…あまりの痛み。
視界が地震のように揺れ、身体が振動し、生温かいものが髪を濡らした。
独特の苦い匂い。
コーヒーの海。
僕はそこに、倒れたようだ。
何が、起こった?
沙奈が明るく、無垢に微笑んで、僕を見下ろしていた。
「…さなっ…」
沙奈の目には、もう、僕は映っていない。
やっと、状況を理解する。
僕は…沙奈に、刺された、のか。
「…早く死ねよ、気持ち悪い」
冷たい声が、吐き捨てられた。