いと。
下着を身につけコットンのワンピースを急いで着て、彼の後を追って寝室を出る。
「薫…。」
夕べたたんでソファに置いていた服を着た薫はキッチンでマグカップにコーヒーを作っていた。
『俺専用』といって置いていた一杯ずつマグカップでドリップするお気に入りのコーヒーだ。
「……………。」
「薫…。ごめんなさい。言いたくなくて…言わなかった。口に出すのも嫌で、それに………。
それに、まさか本気で結婚させるとかありえないだろうと思って。だから……。」
視線をマグに落としたままの表情はよく見えない。
「……冗談?冗談だと思った?あの人が君に『冗談』を言ったんだと?
そんなのありえないってことは君が一番知っているはずだろ。」
こんな風に責めるような口調は珍しい。
「………そ………うだけど。でも…っ!」
ふと顔を上げ私を見る瞳には明らかに怒りと苛立ちが見て取れた。
「甘い。甘すぎるだろ?なぁ。」
薫…。本気だ……。
「でも、そんなこと言ったってまさか勝手に決めるなんてこと…!」
「だから甘いって言ってるんだよ。………甘すぎだろ。」
呆れたと言わんばかりの口調。まるでバカにされているようにも感じて思わずカッとしてしまう。
「なっ!そこまで言わなくたって!」
「じゃあなんだよ。都合の悪いことは見ないふりするガキと一緒だとでも?」
「ガキ!? 私のことそういう目で見てたんだ。…酷いよ薫!」
「……はぁ。愛は何もわかってない。
ましろは今や業界でも十分大きな方だ。
その事業方針や経営状況によっては外部との太い繋がりが欲しくなることもあって然り。
社長令嬢という君の存在をどう扱うかで株だって左右される可能性がある。
………愛。君はそれを考えたことがある?」
「社長、令嬢?…株?」
父の仕事や会社なんて知ろうともしなかった私にとってそれはまったく想像もしなかった話で、薫の言葉が何を意味するのか…。
その答えが頭の中で導き出された時、してしまったことの……違う。しなかったことの重大さに、私はようやく気付いた。
「政略結婚させるってこと…?まさかそんなひどいこと………」
「ないと思ってた?しかも君はそんな大事なことを俺に言わなかった。 話してくれていたら俺だってもっと早く…!
いや………。それどころじゃないな。」
「……え?」
寂しそうな視線はどこか一点を見つめ、必死にその心の内を押しとどめているようだった。
「薫…………、ごめんなさい。でもっ!」
バン!
「っ!?」
思わず伏せてしまった目をおそるおそる開けると薫の両手は強くシンクに叩きつけられ、その衝撃でマグカップはドリップパックごと倒れていた。
香ばしい香りの淹れたてのコーヒーは飲まれることなくシンクを伝い、排水溝へと吸い込まれていく。
「言いたくないから言わなかったって?
……冷静に考えたらどんなに大事なことかくらいわかるだろ!?結婚だぞ!?
それを目を瞑って知らないふりしてたって!?……ふざけるなよ!?」
「………ご…めんなさ……い、薫…。」
初めて見る私に対する本気の怒りに…思わず声は掠れてしまっていた。
「…………ごめん。帰る!」
何かに気づいたようにバッグを掴みバタバタと去る薫を…私は引き止めることも追うこともできなかった。
ただ、あんな風に声を荒げさせてしまった私の不甲斐なさと後悔が重く重く心にのしかかって…、涙が溢れて止まらなかった。