やさしい恋のはじめかた
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その日の仕事帰り。
泣き腫らした目元のことは『急にコンタクトがずれて……』と適当に誤魔化し、なんとかその後の仕事を終えた私は、そのまま部屋に帰る気分にもなれず、街を歩いて時間を潰していた。
大海は今日は朝から社外に出っぱなしで、ホワイトボードには直帰の予定が書き込まれていたので、凛子さんとの結婚が本格的に動き出したという社内での噂も、私がそれを聞いてしまったことも本人は全く知らないだろうと思う。
未だ抜け出しきれない泣いたあと特有の倦怠感に包まれながら、あてもなく通りをふらつく。
すると--。
「……あ」
ドアノブに手をかけた瞬間、今自分が何をしようとしているのか理解した私は、小さく声を漏らしながらも、次の瞬間には苦笑していた。
また……また来てしまった。
どうして私はこんなにも弱いのだろう。
オレンジ色の温かな明かりと、シャンプーやカラーリング剤、スタイリング剤などの匂いが混じり合って独特の匂いに包まれた場所。
その中で、今日も一人、黙々と自分の腕を磨いている私のヒーローがいる場所に、自分でも無意識のうちに足を向かわせていたらしい。
行かなければいけないのは大海のところのはずなのに、私は一体何をしているんだか……。
桜汰くんが勤める美容室の前まで来てみたものの、入ろうかどうかしばらく悩んでいると、ふと顔を上げた桜汰くんがこちらを向いた。