やさしい恋のはじめかた
数瞬すると、少し冷静になってきたのか、今の話を聞かれていたらどうしようと失礼なことが頭をよぎった。
けれど、たとえ聞こえていたとしても稲塚くんはなにも言わないだろうとすぐに思い直し、私も立ち上がって大海が置いていったぶんの雑巾と合わせて洗面台で水を流しはじめる。
大海を心から尊敬していて、情けない先輩の私のこともどうにか立ててくれたことがある彼は、聞こえていようとそうじゃなかろうと、きっと今までどおりに変わらないだろう。
私たちに対して引っかかるものは感じるかもしれない。
それでも彼は、なにも言わないし変わらない、そういう後輩だ。
「稲塚くんに言ったら、なんて言葉が返ってくるかな」
バカですね先輩は、って言うかもしれない。
相談くらいしてくださいよ、なんて言うかもしれない。
なんで付き合ってることを隠してたんですか、とは、後輩の立場もあるからさすがに言わないかもしれないけれど、だいたい雪乃と同じような反応をするんじゃないかなという感じが、なんとなくする。
そんなことを考えているうちに2枚の雑巾も綺麗になり、蛇口をひねって水を止めると、固く絞って掃除用具入れに戻す。
ふと顔を上げると、ちょうど休憩室の前の廊下を優雅な所作で堂前さんが歩いていくところで、私に気づいた彼が通りすぎ際、これまた優雅にひらりと手を振り、美しい笑みを残して去っていった。