その愛の終わりに


「まあ!山川さん!」


思わず口元を押さえる。

というのも、山川は走ってきたのか、その秀でた額から玉のような汗を流していたのだ。

とっさに袂からハンカチを取り出すと、美都子は山川に駆け寄った。


「どうぞ、お使いください」

「ありがとう。ところで、なぜこんなところに?」


山川の意図を図りかねて、美都子の眉間にシワが寄った。

それは一体どういう意味だ。


「ここは貴婦人が普段使いするような場所ではない」


やけに強い山川の口ぶりに、美都子はあからさまにムッとした表情を見せた。


「だからなんだというの?夫の忘れ物を届けに来ただけよ」


いつの間にか言葉遣いも乱れているが、それに気づかないくらい美都子は苛立っていた。

山川は疑わしげに、美都子からカフェー・プランタンに視線を移す。


「ここで商談が……?」

「きっとそうですわ。遊び相手と来るには、些か敷居の高いところですもの」

「だが商談をするような場所でもない。ここの客層がどんなものか、貴女はご存知ないだろう?」

「ならば教えてくださいませ。どんなかたが出入りなさるというの?」


噛みつくようにそう返す美都子につられて、山川の口調もだんだん荒くなっていく。

そしてさらにそれを煽るような態度をとってしまう自分を、美都子は内心嫌悪していた。

山川に噛みついたところでどうにもならないだろうに。

お互いいい年の大人だ。

それがどうして、こんな風にみっともない嫌味の応酬をはじめたのか。

しばらく睨みあった末に折れたのは、山川だった。


「大人げのないことをしました……申し訳ない」


素直にそう謝られたことにより、自然と美都子も謝罪の言葉が出る。


「こちらこそ、八つ当たりしてしまいましたわ。お許しください」


互いに冷静さを取り戻し、改めて山川はカフェー・プランタンの客層について語る。

いわく、ここに集うのは文学者や画家など、当代一流の文化人たちである。

時たま新橋の芸者も足を運ぶが、その芸者も並の者ではなく舞踊家として名高い八重次である。

彼女もまた一流の文化人であるし、その他に挙げられたのも歌舞伎役者や歌手といった文化人ばかりであった。


「となると、お仕事とは考えにくいですね……」

「ここで待ち合わせる相手か……。私にも想像がつきません」

「そうですか……ならば店内に入りましょう。直接確かめればいいだけのことです」



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