平凡な毎日に恋という名の調味料(スパイス)を
「でさ。一度は辞めようと思った料理の仕事だったけど、喜んでくれる人がいるならって。でもやっぱり直の反応が欲しくって、この店を始めようと思ったんだ」

こちらが拍子抜けするほどいつもの晃さんに戻って、静かに話を戻す。。

「だから礼ちゃんは、俺と橘亭の恩人ってこと」
「恩人だなんてそんな。大げさです」

そういえば、脩人くんもわたしの何気ない行動に意識を変えられたって言っていたっけ。でもそんなの、買いかぶりも甚だしい。

「なんの取り柄もない平凡なわたしに、人の生き方を変える力なんてあるわけないですよ」

昏い視線を落とすと、黄色の玉子焼きが視界に入る。わたしが晃さんから欲しかった言葉は『恩人』なんて格式張ったものじゃない。

「わたしのほうこそ、晃さんに変えてもらったんです。同じことの繰り返しで退屈だった毎日を」

朝、晃さんに会えると思うと起きるのが辛くなくなった。
お昼に食べるお弁当は、単調な仕事の活力源。
夜や休日、橘亭で過ごす楽しい時間は何にも代え難いもので。たとえ仕事で嫌なことがあったり疲れていても、晃さんの美味しいご飯と穏やかな笑顔があれば、あっという間に忘れられた。

だけどその時間は永遠に続くものじゃない。わたしだけのものじゃないとわかっていたから、常に心の奥に留まっていた苦ささえも、大切に味わった。

「諦めようとしたんです。こんな想いは間違っているんだからって。でも玉子焼きを食べるたびに、晃さんのことを思い出しちゃうんです。自分で作ったはずのに、晃さんのを食べているような気がして」

この一週間、どれだけ玉子焼きに混ぜ込んでも消えることのなかった想い。
当然だ。だって、それをまた、自分で食べて取り込んでいるんだから。

「そんなの当たり前だよ? 俺直伝の玉子焼きなんだから」

テーブルに両肘をついて組んだ手の上に、細い顎を乗せ不思議そうに晃さんは少し首を傾ける。

「昼間、俺を試すようなことをしたのも、俺と希が夫婦だと勘違いしていたのが原因ってこと?」
「……すみません。グルグルといろいろ考えてて、どうかしてたんです」

あぁ、時間を巻き戻してあのときの自分の口を塞ぎたい。恥ずかしさに身の置き場がなくて、椅子の上で縮こまる。
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