29歳、処女。
「あっそ、ならいいけど」



喜多嶋さんはふい、と視線を逸らして、棚の中に並べてあるワックスを取り出した。


それから突然、私の髪に手を触れた。


えっ、と驚いて後ろを振り向くと、喜多嶋さんがちらりと私を見下ろして肩をすくめる。



「お前に任せてたら日が暮れそうだから、俺がやってやるよ。ほら、前向け」



頭の両側をつかまれて、無理やり前を向かされる。


鏡の中には、ぼさぼさ頭の私と、そのすぐ後ろに立っている喜多嶋さん。



喜多嶋さんは鏡の中の私をまっすぐに見ている。


私も鏡の中の喜多嶋さんを見つめる。



奇妙な沈黙が一瞬流れた。


それを打ち切るように、喜多嶋さんが手を動かしはじめた。



喜多嶋さんが私の髪を手にとって束にして、ヘアウォーターをスプレーする。


顔の近くにかけるときは、目にかからないように、左手で覆いを作ってくれた。



「………優しいですね」



思わず正直な感想をつぶやくと、



「だまってろ」



と耳を軽く引っ張られてしまった。



仕方なく、黙って喜多嶋さんの手を見つめる。


きびきびと手際よく、無駄のない動きを見せる長い指。



手がきれいだな、と思ったけど、黙っていた。



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