29歳、処女。
喜多嶋さんは、左手の指で私の唇の下を軽く押さえ、右手で口紅を塗る。


そっと、こわれものに触れるように。

いつもの意地悪で俺様な姿からは想像もできない、優しい手つき。



喜多嶋さんは優しい。本当は。本当に。


それを知ってるのは、私だけですか?



「―――できたぞ」



そう言った喜多嶋さんの声は、いつもより低くて、すこし掠れているような気がした。



「ありがとうございます」



視線が絡み合う。



「なあ、雛子」


「はい」


「お前、キス、したことあんの」



すこし淡いブラウンの瞳に、私が大きく映っている。


この目に嘘はつけない。つかない。


どんな私も、全部さらけ出す。

どんな私も、全部受け入れてくれると分かっているから。



「………キスは、あります」



ふうん、と言って、喜多嶋さんはすっと目を細めた。



「雛子のくせに、生意気な」



低くつぶやいた声は甘くて、私の胸を波立たせた。



喜多嶋さんが口紅を放り出す。


その指は私の前に伸びてきて、彩られたばかりの唇をなぞった。



「この唇で、どんな男とどんなキスしたんだか」



喜多嶋さんの瞳の奥に、ゆらりと燃え上がるものがあるような気がするのは、私の浅はかな期待が見せる幻かな。



「なあ、雛子」



唇を撫でていた指が、私の頬に触れ、それから顎をつかんだ。



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