奏 〜Fantasia for piano〜
奏が困ったような顔をした。
でも数秒後には「仕方ないな」と呟いて、鍵盤に両手を乗せた。
躊躇いを捨てようとするかのように、大きく息を吸い、吐き出して、それから奏でた。
すごい……。
緩やかな曲は技術の差が分かりにくいものだと思うのに、奏と私の間には雲泥の差があると分かってしまう。
才能と努力と知識に裏打ちされた土台の上に、感情豊かで色鮮やかな旋律が織り上げられていく。
この楽章は六分ほど。
でもあっという間に感じる。
最後の一音が音楽室の空気に溶けてなくなると、それを待っていたかのようにチャイムが鳴った。
「右手の薬指だけじゃなく、全ての指が思うように動かないな……。一年半ぶりだから、こんなものか……」
両手を見つめて奏が独り言を呟き、それから横に立つ私を見た。
「うまく弾けなかったけど、大体こんな感じ。
次は四日後の昼休みにしよう。それまでにマシなレベルになっておいて」
奏は先に音楽室を出て行き、私も教室に戻らなければならない時間なのに、ピアノの椅子に座り込んでしまった。
うつむいて、奏の気配の残る鍵盤を見つめていると、梨奈が近づいてきた。
「香月くん、うますぎ。鳥肌立っちゃった。
ストイックな教え方なのは、自分が完璧な音を知っているせいかもね」
「うん……」
「綾、香月くんに弾かせたかったんでしょ?
作戦成功したのに、嬉しそうじゃないね。なんで?」
なんでと聞かれたら、奏が楽しそうじゃなかったからかな……。
辛そうでもなく、まるで心がここにないような、曇った目をして弾いていた。
とても上手な演奏で、技術の高さには圧倒されたけど、私が求めているものと違う。
今の奏の演奏は、心が震えなかった。
情熱や夢、希望、そういう前向きさが欠如して、今の奏は冷えきっている。
そして、それが演奏にも出ている気がした。