奏 〜Fantasia for piano〜
奏は拭いたカップを食器棚にしまっている。
また無関心の中に戻る気なのかと残念に思っていたら……奏の右手が、宙を弾くのを目撃した。
背を向けられているので表情は見えないが、ハッとしたように肩をピクリと動かし、すぐに右手を下ろしていた。
奏……。
本当は弾きたいんでしょ?
思うように弾けないとか、楽譜通りに弾かないと許せないとか言ってたけど、そんなのどうでもいいじゃない。
マスター達、結構間違えてるようだけど、楽しそうだよ。
それでいいじゃない……と言ったら、奏は私を軽蔑するんだろうな。
今まで何年も、音楽を学び、真剣勝負をしてきた奏。
音楽への向き合い方は、マスターとも私とも次元の違うものだ。
楽しむだけでいいじゃないという言葉は、今までの奏が積み重ねてきたものを、侮辱することになるのかな。
なにもかも諦めたような目をして生きるより、ずっといいと思うんだけどな……。
楽しかったアコールでのミニ演奏会が終わり、すっかり暗くなった夜道を歩いている。
私と梨奈と、バイトを終えた奏も一緒。
地下鉄の駅で方向の違う梨奈が「明日もよろしくね」と離れていき、私と奏はブルーラインの地下鉄に乗り込んで、空いているシートに並んで座った。