机上の言の葉
 特にやりたいこともなく大学に入学して、何度目かの中間テストが終わり、また通常の講義が始まりだした。

 二年生になって初めてのテストは可もなく不可も無く、ついでにテストが終わったと言う感動も無い。

 学校に行って、授業を受けて、家に帰って、食べて、寝る。テストもこの繰り返しの平穏な生活の一部でしかないから、感動が無くて当然か。

 今でこそ、無風の生活の中に身を委ねているけれど、入学当初は不安もあった。

 初めての一人暮らし、知らない土地、広すぎると感じた学校の敷地。

 今では懐かしさを覚える。

 平穏な生活はとても退屈なもので、七月目前の程よくクーラーの効いた講義室も相まって、教授の声が子守唄になりつつあった。

 寝たら注意されるので、気を紛らわせるものはないかと目だけで辺りを見回す。

 ちょうど自分の手元に視線を移した時、僕は“それ”を見つけた。

 六人用の白い机――今使っているのは僕だけだ――の端に、女の子が書いたのか丸っこい字で何か書いてある。

『光を失った私に 伸びる救いの手などはない

 光を失った私を 蔑む貶める目しかない

 弓なりの月の下 一人放り出されて

 6と8の混ざった 世界に迷い込むの』

 文学はからきしなのだが、ザッと目を通した感じ詩か何かだろうか?

 何か大切なもの――光とあるから希望だろうか――を無くしたのかなとか、一人になったのかなとかは想像できるけれど、具体的に何が言いたいのかは分からない。

 6と8が混ざった世界とは何なのだろうか? 足して14、もしくは、さらに二で割って7が関わってきたりするのだろうか?

 意図的に残したにしても、消し忘れたにしても、落書きには違いないので、深い意味はないのかもしれない。

 幸い眠気覚ましにも、暇つぶしにもなった。冴えた目で授業をちゃんと聞こうかと思った矢先に「今日はここまで」と教授の声が響いた。

 教室を出ていく教授を後目に立ち上がり、携帯で黒板の写真を撮りに行ってから、片付けをするために元居た席に戻る。

 無造作に置かれたシャープペンシルを手にしたところで、ふと先ほどの落書きが気になった。

『6と8の混ざった』と書かれている部分を丸で囲ってから矢印を引っ張り、『14か7ってこと?』とコメントを添えてから、学食に向かった。



 いつも一人でいる僕にとって、人の集まる学食は好ましい場所ではない。

 基本的に席は四人掛けなので、一人で座っていると申し訳ないと言うのもある。

 二人組に相席を頼まれ、談笑する様子を隣で聞いている自分がいたたまれなかったと言うのもある。

 だから一年生の前半は、すぐに食べ終えて次の授業の教室に向かうか、講義が無ければ帰るか、図書館に逃げ込んでいた。

 だがそれも昔の話で、今は一人で昼食をとっていたら「よう、ボッチ」と僕の前の席に寝癖の残った髪の男が座る。

「八木、今日も来たんだね」

「カズトは気まずくない、俺は席を取るのが楽、素晴らしい関係じゃないか」

 八木の言葉を否定する気も無いので、「おっしゃる通り」と返して、食事に戻る。

 ボッチもカズトも、僕を示す名称で、正確には成宮一人という。

『一人』と書いて『カズト』と読むのだが、一年の時に偶々同じ授業を取った八木が一人でいる僕の所に来て、名前を訊いて『ボッチ』と名付けた。

『一人ぼっち』だから『ボッチ』。如何にもいじめられそうなニックネームではあるが、幸か不幸か呼ぶのは八木しかいない。

「昼休みだけしか会わなくなってだいぶ経つが、相変わらず一人なんだな」

「別に友達を作りたくない訳じゃないんだけどね。

 こっちから話しかけたくはないし、誰からも話しかけてくれないしで、出来ようがないんだよ」

「ボッチは明らかに真面目ですってオーラ出しているからな。

 話しかけ難くはある」

「八木は話しかけてきたけど?」

「俺は誰彼かまわず話しかけるからな」

 八木がいう真面目そうって言うのは案外的を射ていて、高校まで虐められもしなければ、特別嫌われていたと言う経験も無い。真面目にしている僕の事を邪魔しちゃいけない――真面目のつもりはなかったけれど――と、皆がちょっとずつ距離を置いていたため、友達と呼べる人は毎年一人いればいい方だった。

 現在もこうやって軽口を叩ける相手は八木くらいなものだ。

 胸を張る八木が内心羨ましいのだけれど、表に出すことはせずに話を変える。

「だいぶ新入生も落ち着いてきたよね」

「学食ね。四月は波のように押しかけてたよな。

 ところでカズト、この噂知ってるか?」

「僕が噂を知っているとでも?」

 八木はよほど話したかったのか、僕の釣れない態度など意に介さない。

「例のバンドのボーカルの子が、軽音楽部を辞めたって話だ」

「へえ、この学校軽音楽部ってあったんだ」

「そうだ、お前はそう言うやつだったよ」

「説明よろしく」

 出鼻を挫かれ八木が頭を抱えるけれど、八木以外から噂話など入ってくることはないのだから、仕方あるまい。

 さらに言うと興味がない事はすぐに忘れるので、この大学にどんな部活やサークルがあるのかを僕はあまり知らない。

「前にも話したかもしれないが、去年の文化祭で凄いバンドがあったんだよ。

 四人組ガールズバンドで、演奏が上手いのは勿論」

「容姿的に見てもレベルも高い、ね。思い出したよ。

 文化祭の時は、学校を軽く一周してから帰ったから見てはないけど」

「前回で有名になったから、今年の文化祭も期待されていたんだが、ボーカルが辞めて文化祭に出られるかどうかも怪しいって話だ」

「それはご愁傷様」

「ああ、今年の文化祭の楽しみが一つ減ったよ」

 僕にも八木にも対岸の火事でしかない話題は簡単に流れて行って、ふと落書きの話をしようかと思った時には、授業開始十分前を知らせるチャイムが鳴った。
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