伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
ライルの優しい瞳に見つめられて、ピンと張りつめていたクレアの心の糸が、徐々に緩んでいく。




物心ついたころから、あの店はクレアと共にあって、彼女にとって第二の家だった。

母の死から立ち直れたのも、母の思い出の店が残っていたからだ。

アディンセル家に引き取られ、父以外の人物に冷遇されても、店に立てば、母と一緒にいるような気がして、孤独な心は癒された。


クレアにとってあの店は、母そのものだった。



それを何者かの手によって、無惨な姿にされてしまった。


ひどい……酷い酷い……!




「……私……悔しい……!」

抑えていた感情が一気にあふれ出て、それは涙へと形を変える。

「……こんなことしなくてもっ……もし私が悪いのなら、面と向かって言ってくればいいじゃない……!」

ドレスのスカート部分を、力の限り、ぎゅっと握りしめた。その上を、ポタポタと滴が落ちて、染みが増えていく。

「……返して……お母さんのお店を返して……お母さんを返してよ!」

クレアの拳を、そっとライルの手が包んだ。大きな手から温かさが伝わり、クレアの心にも流れ込んでいく。

「……ライル……様……!」

クレアはライルの胸に飛び付いた。涙と感情が入り混じり、ひどい顔になっていたに違いないが、今のクレアにはそんなことを気に留める余裕すら無かった。

そんな彼女を、ライルは優しく抱きとめる。

クレアにも、どうしていいか分からなかった。

ただ感じるのは、こんな感情の爆発した自分をライルは受け止めてくれているという、絶対的な安心感だった。

クレアは、子供のように声を上げて泣き続けた。



ライルは無言のままクレアを抱きしめ、あやすようにずっと彼女の髪を撫でていた--。


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