伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
元来た通路を戻り、階段上から広いエントランスホールを見渡すと、まだ大勢の人々が残り、そこは夜会とは違ったある種の社交場となっていた。

迎えの馬車を待つ者、まだ帰りたくなくて世間話に花を咲かせる者、など理由は様々だ。

ライルとクレアは階段を下り、出口へと向かう。とある理由で一刻も早く帰りたいと願うライルは、人の多さに少し苛立ちもしたが、クレアが誰かとぶつからないように注意を払いながら、器用に人波をすり抜けていく。

そんな時に、

「ブラッドフォード伯爵!」

男の声が耳に届き、ライルは呼ばれた方向を見た。そこには、きちんとした身なりの、三十代前半とおぼしき紳士が立っている。

「これはこれは、ダーリングさん。こんばんは」

ライルは相手の姿を視界に捉えると、歩みを止めて、親しげに挨拶した。ダーリングと呼ばれた紳士も、笑みを広げながら、すぐそばまでやって来る。

「ここでお会いするとは思っていませんでしたよ。もしかして、そちらのご令嬢が先日話されていた……」

「はい、私の婚約者のクレアです」

ライルは今度はクレアの顔を見た。

「クレア、こちらは、今一緒に事業を進めている仲間の一人の、ダーリング氏だよ」

事業といえば、先日話してくれた鉄道のことだと思い出したクレアは、ダーリング氏に、本日何度目になるか分からない自己紹介をした。

「初めまして、ダーリングと申します。爵位を持たない私を仲間と呼んで頂いて大変恐縮です」

ダーリング氏は、そう自分のことを卑下したが、身に付けいてる衣服は上質でデザインも最新のものだ。爵位は無いが、それなりの資産家であることがうかがえる。

「ダーリング氏は誠実で真面目な方なんだ。俺も安心して、一緒に仕事をさせてもらってるんだよ」

ライルはクレアにそう説明した。その口調から、ライルが本心でそう言っているということが分かる。

「いえいえ、そんな滅相もない……」と、ダーリング氏は控えめに微笑む。だが、少し真顔に戻ると、遠慮がちに言った。

「伯爵、恐縮ですが、少しお時間を頂けないでしょうか? お伝えしたいことがあるのですが……」

< 173 / 248 >

この作品をシェア

pagetop