伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
「……クレア……?」

急に体の動きを止めたクレアに、アンドリューは不思議に思って声を掛けた。

「……」

だが、クレアは呼び掛けには応じない。瞬きもせず、じっと、汽車の方を向いている。

視線の先には、人混みの向こう側から、こちらへ歩いてくる、黒い帽子とフロックコートの長身の男性の姿があった。

クレアは、まるで糸でゆっくり引っ張られるように、その人物の方へ、よろよろと歩き出した。

そのおぼつかない足取りは、やがて確信を得たように、しっかりとした歩みに変わる。

足の運びも徐々に速くなり、クレアは人混みの中を逆流するように走り出した。

「クレア……!?」

背後からアンドリューの声が聞こえるが、振り返らない。

途中で、何人もの肩と体がぶつかる。いつもなら、きちんと謝るところだが、今はそんな余裕は持ち合わせていなかった。



早く、早くたどり着かなきゃ--!



クレアの頭の中は、それだけでいっぱいだった。



だって、ずっと待っていたのよ……!



やがて、ようやく人の波を抜け、目の前の視界がその男性の姿で覆われた時--。



……もう、離さない--!!




クレアは両腕を大きく広げ、思い切りホームを蹴り--

その男性の体に、勢いよく飛び付いた。




「うゎっ……!」



不意に体のバランスを失った男性は、クレアもろとも、ドサッと後ろに倒れ込む。

その衝撃で帽子が落ち、淡い金髪が溢れた。

クレアは相手の胴体にしがみついたまま、離そうとしない。





「意外と力が強いんだね、俺のお姫様は」




しばらくして、どこか、からかうような声が、クレアの頭上から降ってきた。


それは、懐かしい声だった。そして、ずっとずっと、聞きたかった声--


クレアは即座に顔を上げる。






翠緑の瞳が、優しくクレアを見つめていた。



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