伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
満月の光を浴びて、手入れの行き届いた広大な庭園が、昼間とはまた違った表情を見せている。

バルコニーから階段を伝って庭に足を踏み入れ、外の空気を吸った時、クレアは少し解放されたような気分になった。

正直、息が詰まりそうだったから、良い気分転換になりそう……。

そこまでは良かったのだか。

「もう少し、先へ進みましょう」

トシャック氏はさらに庭を進んでいく。招待客は皆、屋敷にとどまって思い思いに時を過ごしており、周りには誰もいない。



急に辺りがしんとして、クレアは心細くなった。

やがて、茂みの陰に差し掛かって、完全に屋敷は視界から消えてしまった。

「……あの、やっぱり戻りませんか……?」

クレアが尋ねると、トシャック氏は振り返り、いきなり彼女の腕を掴んだ。

「えっ?」

ぐいと引き寄せられそうになるのを、クレアはとっさの防衛本能で、足に力を入れて踏ん張る。

「ちょっと……離して下さい!」

トシャック氏はクレアの要望には答えず黙ったまま、彼女の全身を不躾なほど、じっくりなめ回すように眺めている。その視線があまりにも不快で、背筋に悪寒が走った。

「あなたもその気でここまで付いてきたんだろう? 少し戯れるくらい、いいじゃないか」

「なっ……!」

その気って、何……!

「こんな地味な格好をさせられて、可哀想に。私と一緒になれば、今よりももっと良い暮らしをさせてやる」

先ほどまでの紳士的な態度を一変させて、トシャック氏はいやらしく笑う。

「少し野暮ったいのは目をつぶるとしよう。私も、完璧な令嬢では駄目だ、と言えるような身分ではないのでね。例え妾の子だとしても、貴族の血が流れている娘を妻に迎えるだけで、我が家名にもようやく箔が付く」


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