伯爵と雇われ花嫁の偽装婚約
「……君は悪い子だね」

「えっ!?」

「可愛い顔をして、俺を誘惑する。その真っ直ぐで美しい瞳に溺れそうになるよ」

「ゆ、誘惑……!?」

クレアはライルの腕の中から逃れようともがいたが、その腕は力強く、クレアを離そうとしない。

ライルの翠緑の瞳にじっと見つめられて、クレアの頬が上気する。

溺れそうなのは、こちらの方だ。その深い緑の瞳に、何かも吸い込まれてしまいそうになる。

「いつでもどこでも、って……もし夜に俺の部屋に呼んだら、来てくれるのかな?」

ライルは、クレアの耳元に口を寄せてささやいた。

甘く低い声が、耳と脳を刺激する。その言葉の意味を理解して、クレアは自分の顔が、火が噴き出しそうなほど熱くなるのを自覚した。

「ち、違いますっ……そういうことじゃなくて……ひゃっ!」

最後に小さく叫び声を上げたのは、ライルがクレアの耳朶に軽く唇を押し当てたからだ。

それだけなのに、体中を甘くしびれるような感覚が駆け抜ける。頭の中がクラクラして、何も考えられず、クレアは目を閉じた。

「も……もう……許して下さい……」

「俺は何も怒ってないよ?」

どこか楽しげなライルの声が聞こえてくる。

「……お、お願いですから……」

「じゃあ……そんな顔を俺以外の他の男に見せてはいけないよ? ……約束出来る?」

鏡が無いので、今どんな顔をしているのか分からないが、ライルが意地悪なことをするのは、自分に原因があるらしい。

クレアは黙って、こくこくと頷くのがやっとだった。

ちょうどその時、ドアのノックの音が聞こえ、執事が呼びに来たのが分かった。

「ライル様っ!」

腕の力が少し緩まったので、クレアがさっと体を離す。

「……ローランド、呼びに来るのが早いぞ」

ドアから現れたローランドに、ライルが不満そうに呟く。

ライルと微妙な距離を取って、赤面してうつむいているクレアを見て、ローランドは状況を悟った。だが、さすがは有能な執事なだけあって、表情一つ変えずに詫びる。

「それは申し訳ありません」

ローランドは腰を折りながら、旦那様もなかなか苦戦していらっしゃるな、と内心苦笑した。

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