アンフィニッシュト・ブルー(旧題 後宮)

私は王子のいる和室の声をかけることもなく、汚れた鍋だけをもって静かに店に戻った。
誇り高い人間が悲しみを噛みしめるためには私のような立場の人間はいないほうがいい。


彼は、国に帰らなければいけないのだろうか。
彼の両親を殺してしまった国。彼の命を狙う国民のいる国。
そんな国に帰らねばならないのだろうか。

普通の大学生として日本で学びたいことを勉強をして、就職して、好きなトーストを思い切り食べればいい。カガンが恋しくなればうちでカガンティーをのめばいい。彼にならいくらだってご馳走してあげる。たっぷりのバターをつけてあげる。

それではだめなのだろうか。



そんなことを考えて、私は首を振った。


踏み込みすぎだ。
二度とこんな事を思い描いてはいけない。

私は今、今だけ一時的に彼を匿っているが、王子の生涯に対して責任を持てる立場ではない。彼に何かしてあげられるような人間ではないのだ。そんな覚悟もない。
ひとときの同情心でこんな事を考えてはいけないのだ。

ざあざあとシンクに流れ込む、凍えるような水道水のつめたさに手を浸し、私は勝手なことを考えた自分を罰するように、水音を立てて吹き零(こぼ)れた鍋を洗い始めた。


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