デジタルな君にアナログな刻を
午前9時05分 真相
ほんの2時間ほど前に通ったばかりの道を逆戻りし、いつもより学生や会社員の姿の少ない中を出勤する。頭の上には澄んだ冬空が広がっているけれど、相変わらず空気は冷たい。

店舗の裏口に回ると、もう店長が出勤しているらしく鍵が開いていた。

「おはようございます」

挨拶しながら中に入った途端、コーヒーの香りに出迎えられた。

「おはよう。今日、二回目だね」

ミニキッチンに立つ店長が振り返る。数日ぶりで目にするベスト姿と、あらためて昨日の夜を思い出したことで、急に心臓がばくばくと鳴り始めた。

「手は大丈夫なんですか?顔色は良さそうですけど……」

デフォルトの眠そうな眼が、多少大きく開いているような気がする。あんなバタバタした夜を過ごした翌朝には見えない。
不思議に思いつつ、両手にカップを持つ彼の左手から急いで受け取った。あれだけ、安静にしてくださいとお願いしたのに。本当に学習能力のない人なの?

呆れのため息を落としたカップに注がれたミルクたっぷりのコーヒーが、唐突にわたしの鼓動を速めた。たぶん、しばらくの間はカフェオレを見る度に、昨夜のことを思い出すのだろう。いや、もしかしたら一生かも。

「円ちゃんは、本当に心配性だね。大丈夫。いつもよりたくさん眠れたし」

自分のことは高い棚の上に置いて笑う彼は、濃紺地にパープルの細いストライプが入ったネクタイを差し出した。

「さすがにこれは無理だから。お願いしてもいい?」

断られることはまったく考えていない声音。ええ、もちろん断れるはずないですよ。立ったままコーヒーを飲み終え、触り心地の良いネクタイを手にした。
いままで何十回としていた行為が、やけに気恥ずかしい。意識をネクタイの結び目に集中させた。

「円ちゃん」

低く、いつもよりいっそう甘い声が降ってくる。蜂が蜜に誘われるように顔を上げたくなるのを、必死に堪えていた。

「昨日一日お店を開けてくれて、ありがとう。大変だったでしょう?」

「い、いえ。……暇でしたから」

いままで襟元の一番上まで上げていた結び目を、少し下で止める。「できました」と離した手に、今度は懐中時計が乗せられた。

「これもお願い。何日か使っていなかったから、止まっちゃった」

3時52分で止まった針。ジリジリと竜頭を回す。ゼンマイを巻き切る少し手前で止める感覚は、いつの間にか指が覚えてしまっていた。時刻を合わせると、微かな音を立てながら時が動き始める。それを満足そうに眺めてから、彼はベストのポケットにしまった。
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