肉食系御曹司の餌食になりました

時刻は二十時近くなる。

周囲のテーブルはまだディナーの真っ最中だが、十七時に入店している私達は席を立った。


「ありがとうございました。またお越し下さいませ」


黒服の店員が、迷惑な客だった私達にそんな言葉をかけてくれたのは、支社長がチップを渡していたせいだろう。

店を出たところで、「アン、この後、展望ラウンジで飲みませんか?」と誘われた。

展望ラウンジは、このタワーホテルの最上階にあるバーだ。

利用したことはないけれど、美しい夜景を見ながら美味しいお酒を楽しめるという話を聞いたことがある。

こんなに疲れているのだからもう解放してほしいという気持ちで、「帰ります。食事までという話でしたよね」と断った。

しかし正直言うと、ほんの少しだけ後ろ髪を引かれる思いもある。

美味しいお酒と美しい夜景という言葉は魅力的。それに……。

正体がバレる恐れがあるので、彼との関係は客とシンガーに止めておきたい。

その考え方は揺るぎなく心の中にあるのに、どうしてだろう?

このまま甘い展開なしに帰るのが、惜しい気持ちがするなんて。

昼間の支社長室での不完全燃焼のキスが、こんな気持ちにさせるのか?

だとしたら、アレも彼の作略だったり……いや違う。あのときは亜弓で今はAnne。彼は私の正体を知らないのだから。

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