イジワル御曹司に愛されています
そもそもどう考えたって頻繁には来ないこの街を、散策する意味は名央にはないのだ。あれこれ発見しながら歩くのが好きな、千野につきあっているだけだ。

照りつく太陽がみるみるアイスを溶かす。すぐに持っていられなくなりそうだったので、急いで食べきった名央の目の前で、千野がぼたりと1/4ほどを地面に落とした。


「あー!」

「バーカ」

「ぐっ…」


そんなに食べるのが速くないんだから、カップ入りにすればよかったのだ。

アスファルトの上であっという間に水色の液体になったアイスの名残を、悲しそうに眺める千野を今度は引っ張る形で、再び歩きだした。

さすがメーカー、夏休みはカレンダーを二度見したほど長い。予定を千野に合せるのはさほど難しくなく、実家で過ごすと決めた日の一日を、こうして出てきた。


「そうだ、これ、うちの親から」


ふと思い出し、ボディバッグを後ろ手に探って、小さな包みを取り出す。


「え、親って…お母さん?」

「ほかに誰がいるの」


なぜか千野はおそるおそるといった手つきでそれを受け取った。くんくんと鼻を近づけて、「お茶だね」と言う。

出がけに嘉穂が手渡してきたものだ。特に誰と会うなんて話はしなかった名央だが、母の勘というのはすごいものだと感心した。

その嘉穂とは最近、たまに電話でやりとりするようになった。良好な親子関係というにはまだぎくしゃくしているが、確実に以前より、母と息子らしくなってきている。

きっかけは久芳に言われ、陽一の死後のごたごたの後で、初めて実家に帰ったときのこと。

いつもの通りチャイムも鳴らさず、鍵を開けて入った名央を、玄関先で嘉穂が出迎えた。帰るとも伝えていなかった名央はぎょっとし、『…ただいま』と思わず、何年も使っていなかった言葉を口にした。

とたん、嘉穂の目に涙が浮かんだ。驚く名央の前で、ひとつ鼻をすすってそれを消してみせると、気丈に言い放つ。


『荷物くらい、送ってあげるから。嫌ならわざわざ来なくていいのよ』


そのとき、突然わかった。母の長年の孤独と、自分ではそれをどうにもできない焦燥感、敗北感、そして身につけた、強がり。怜二との接近は、その強がりがいびつな形で表れた結果なのかもしれない。
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