勘違いも捨てたもんじゃない
胸を押さえ、聞き覚えのある声に振り向くと、紳士が立っていた。スリーピースの上にチェスターコートを着た銀髪の紳士だ。
「忘れられてしまったかな?」
…あ。サッと脱いだコートを後ろから掛けられた。
「コートがコート以上だな。着ぐるみのようだ」
…。
「そろそろ何か言ってくれないかな?それとも寒くて唇が凍りついてしまったのかな?」
くるりと身体の向きを変えられた。躊躇うことなく唇が触れた。…ん、…。軽く触れた唇は温かかった。
「…冷たいな…やっぱり凍りついていたか。…高鞍真希」
抱きしめられた。
「…はぁぁ……いつ来るか、…待ってたぞ」
…あ、…。安住さん…
「ご飯、まだなんだ。俺と一緒に食べてくれないか?」
…。
「店ができてから、毎日、二人分取ってあるんだ」
「…え?」
「君が来てくれたら、ランチを一緒にしようと思ってね」
「あ、あ、…」
「…寒い。俺が寒いから中に入ってくれ」
強引に手を引く事はしない。だけど、言葉の終わりとともに、もうさりげなく腕を腰に回されていた。
「今日は、というか、ランチは白身魚のムニエルだ」
あ。
「君は魚、好きだよな?」
…。
中に案内された。窓際の一つのテーブルにだけスポットライトが点けられた。
「さあ…、座って待ってて」
椅子を引いてくれた。
入ると同時に暖房のスイッチを入れたのだろう、足下から暖かくなってきた。
向かいの椅子を引き、脱いだジャケットを掛けワイシャツの袖を軽く捲り始めた。
厨房に入ると手を洗い、冷蔵庫から材料を取り出している。
「すぐ焼くから」
ロングエプロンを着けていた。
スーッ…温かい香り…チョコの香りがしてきた。
「先に、…はい。温まるから」
ホットチョコのカップをコトッと置いてまた厨房に戻った。
バターの香り…小麦粉の焦げる香り。ゴト、ゴト…、時々フライパンを揺する音がした。
「ご飯とパン、どっちがいい?」
…。
「解った。ちょっとずつ両方にしよう」
あ、…、もう。
「フ、聞いた俺が間違い、だよな?」
ホットチョコのカップを手で包み、窓からの景色を眺め続けていた。木立の間から見える月は少し移動していた。
「…よし、できた。手伝ってくれないか」
あ、…すっかりお客さん気分になっていた。
スクエアの白いプレートにムニエルが乗り、クレソン、レモンが添えられていた。ポテトサラダ、トマト、カラフルな豆をツナと玉葱で混ぜ合わせたものが反対側に盛られた。それとほうれん草のポタージュ。チーズが溶け込んでいるようだ、…濃厚な香りがする。
カウンターに置かれた二人分のそれをテーブルに運んだ。
エプロンを外し、お水を手に安住さんが出て来た。
「今夜は流石に外では辛い。瞬時に冷めてしまうし。ここから眺めてくれるか」
「…はい」
「…何も考えず、食べよう。やっと、返事だけはしてくれたな」
「あ、…はい」
きっと、これが、最初で最後の夜のランチ。あの時の約束は果たされた。
「頂きます…」
「ん…頂きます」