勘違いも捨てたもんじゃない
呼び慣れない名前を緊張しながら呼んで、肩を叩く、言われたように起こす必要はなかった。
目が覚めたらベッドに安住さんは居なかった。
何の形跡も無かった。
私もいつ眠ってしまったのだろう。
安住さん?…リビングにも居なかった。飲んでいた珈琲のカップも元通り。洗ってしまわれていたし、ベッド脇の小さいボトルの水も無かった。
…何も。昨夜、本当に来て寝て帰ったのかもよく解らなくなって来るくらい…。幻?
だけど、シーツに残る僅かな香り。この香りが安住さんがいた証だ。はぁ、もう…。本当、…何だか疲れた。休みで良かった…。……何なの。
昨夜会った、あの女性は、きっと上に住む人なのね。会った事は一度もない。仕事のスタイルが違うのね、多分。
あ、え?…何、…これ。虫に刺されたのかと思った。左の鎖骨の辺りに見逃してしまいそうな程小さな跡。でもとても濃い紅。まるで存在を主張しているみたいに見えた。洗面台の鏡にそれは映っていた。…痒みは無い。虫刺されなんかじゃ無い。何かしてるじゃない。何もしないって言ったのに。
…それに、これ。鏡を見る事は解っていたからだろう。
『深い意味は無い』って口紅で書いてある。…何が、人に…。誘うのが上手いのか、ですって?……こんなこと。やり慣れてなければ昨日や今日で習得できるものではない。比べ物になんかならない。あなたの方がずっと慣れてるって言うのよ。…はぁ。これは逆に印象付いてしまうじゃない。
余計なお世話だけど、ちゃんと眠れたのかしらね。横になってみたもののベッドが合わなくて帰ったのかも知れない。起こせとか、一緒に寝てくれとか…子供みたいな事を言う。本当によく解らない。それこそ、こういうのを甘え上手って言うんじゃないの?…昼間の紳士とのギャップ。あり過ぎよ。安住さんに惹かれている女性なんか、こんな事をされたらすぐ堕ちてしまうだろうな。本当…堪らないでしょ。
…それにしても、これは…。何が深い意味は無いよ。はぁ、…全く。策士ね。今回はこうやって考えてしまうじゃない。まだ今のところ辛うじて紳士なのだろうけど…。こんな事して、深い意味はあるじゃないですか。…深い意味…と、思うか思わないかは、……え?私の気持ち次第ってこと。気持ちが変化したって、…自覚させたい……?