猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
抱えられた頭はラルドの肩口に収まる。グレースの視界は遮られ、声音と香り、伝わる鼓動だけで夫の心を慮るしかない。

「ただ、ときどき。本当に稀に。逃げてしまいたくなって、どうしようもなくなることがあるんです。だからどうかそのときは、一瞬でも構わない、貴女を僕の逃げ場所にさせてもらえませんか」

腰に回されている腕の力が強くなり、心身ともにグレースの息が詰まった。持っていた花束が地の落ち強い芳香を放つが、グレースには届かない。

「ありがとう、わたしにもできる役目を教えてくれて」

空になった両腕でしっかりと夫を抱きしめた。
自分が愛したのは万能な太陽神ではない。ときに苦悩する、ひとりの男なのだ。

「こんな薄っぺらい胸でよかったらいつでも貸すわ。遠慮なんかしないで、どうぞ存分に使ってちょうだい」

少しの間の後、グレースの頭頂部にふん、と風がかかり、額をつけていたラルドの肩がふるふると震えだす。顔を上げようとしても、彼の手と頭で押さえられているので身動きが取れない。

「ありがとうございます。頼もしいですね。甘えついでに、もうひとつわがままをお願いしてもいいでしょうか」

耳のすぐ上から含み笑いと一緒に声が落ちてくる。「自分にできることならば」と訝しみながらも、グレースは要求を訊く。

「できればもう少し厚い胸のほうが好みで……ぐっ!」

グレースはラルドの腰を力の限り腕で締め上げたのだった。


ラルドが落ちていた薔薇を拾い上げると、いつの間に来ていたのか一匹の白い蝶が花から離れて舞い上がる。しばらく薔薇とグレースたちの周りをひらひらと飛んでいたが、不意に湖へと向かっていった。

その姿を目で追ったふたりは、対岸の方向からやってくる違う色をした二匹の蝶をみつけた。
薔薇の甘い香りに誘われたのかと思ったが、合流した三匹は花には見向きもせず、再会を喜ぶように湖上で舞う。やがてもつれあいながら上へ上へと昇り始め、とうとう蝶たちの姿は青い空に溶け込んでいってしまった。

目を細めその一部始終を見守っていたラルドの手から、グレースは花束を受け取る。

「ねえ、ラルド。フィリスは本当は……」

彼の言動。コニーの想い。それらからグレースが導き出した答えを確認しようとした。その口に、ラルドが人差し指を当てて遮る。

「フィリス王女はもうこの世界にはいません。それが事実です」

真っ直ぐに伸びた姿勢で揺るぎない自信に満ちた声と瞳を向けられたグレースは、飲み込んだ言葉にそっと蓋をする。

あと少し経てば、この丘は薔薇の花と香りでいっぱいになるだろう。ならばこの花は――。

丘の端ぎりぎりに立ったグレースは、湖に向け薔薇の花束を捧げた。
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