猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁


伯爵家の馬車は、決して乗り心地が悪いわけではない。むしろ上等のものが用意された。それでも、グレースにとって初めての長旅は、楽しいだけでは済まされなかった。

場所によっては舗装の悪い道を通らなければならず、車体はガタガタと揺れる。いくらたくさんの背当てなどをあてがっても、衝撃が多少ましになるだけ。ようやく宿泊地に着いても、しばらくは身体が揺れているような感覚が抜けない。

ひと晩休んだくらいでは抜けない疲労の残る身体を癒やしてくれたのは、馬車から眺める景色だった。

王都からどんどん離れていっても、街道沿いの大きな街は賑わいをみせる。行き交う人々の活気に圧倒されつつ、間近で繰り広げられる嘘偽りのない市井の営みが新鮮に感じられた。

南に下るに従って濃さが増していく緑は、長い冬の間白い雪景色ばかりを見ていたグレースの目に眩しく映る。名も知らぬ草花が道端を彩り、種まきに備えて軟らかく耕された土の色の濃さは豊かな実りを予感させるに十分だ。

木陰で休憩する農夫。追いかけっこをして泥だらけになって走り回る子どもたち。どれもが、王城にこもっていては目にすることのなかった光景である。

彼らなりの苦労があることは、グレースにも多少の想像はできる。だが端からみる限り、少なくとも精神面ではのんびりと穏やかな日々を送っているようにもみえ、少し羨ましくも思えてしまう。

そんな無責任なことを言ったら、またラルドから辛辣な皮肉を浴びせかけられそうだが――。

グレースが浮かべた薄笑いの先に夫の姿はない。自国の姫とイワンとの婚姻を前に訪問していたバルダロン公国から使者を、国境まで送り届ける役目のためである。ふたりは所領に建つ伯爵家の屋敷で落ち合うことになっていた。

ヘルゼント領の屋敷は王都にあるものよりかなり古い。だがその規模は遙かに大きく堅牢で、屋敷と呼ぶよりも城館といった造りだ。数代前の時代までは、国境を守る城塞の役割を担っていた面影が、随所に見受けられる。

庭園もよく手入れされていて美しい。王都より温暖な気候のおかげか、早くも春の花がそこかしこで咲き誇り、甘く爽やかな香りが風に乗って届く。

馬車から降りたグレースは、青い空に手の平を向けて大きく伸びをし、長時間の乗車で凝った身体をほぐす。王都の屋敷でそんなことをしたら、すぐさまドーラの雷が落とされるのだが、ここには雷雲はない……はずだった。

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