猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
城館での生活は、王都にいるときと何ら変わりなく不自由がない。これといって予定のないグレースには、本当に時間だけは有り余っていた。

せっかくここまでやってきたのだからと、日ごとに深まる緑を愛で近隣を散策をしたり、屋敷から一番近い町まで足を伸ばし間近で庶民の暮らしに触れてみたりもした。
特に身分を隠したわけではないので、周囲とは明らかに立ち居振る舞いの違うグレースのことはすぐ町中に知れ渡ったが、王都から遠く離れた土地であるためなのか、彼女が先々代の末姫だと知っていても、気易く声をかけられてしまう。

「やっとあのラルド様が結婚してくださったよ。それもこんなに可愛らしいお嫁さんとは嬉しいね」

雑貨屋の店先に椅子を出し日向ぼっこしていた老婆が、ほとんど見えていない眼を糸のように細めて両手を探り探り伸ばしてくる。筋張ったシワと染みだらけのそれを、グレースは白い手で包み礼を言った。

「ありがとう。どうか長生きなさってね」

グレースは老婆の使い尽くされた手と自分の滑らかな手を見比べ、ここへ来るまでの考えを改める。このしわくちゃな小さい手に比べ、自分の手はなにも生み出していない。そう思い至れば、染みひとつない己の手がとても恥ずかしくなった。


グレースがヘルゼント領に滞在して十日ほど経ったが、ラルドが来るという知らせは届かない。思いついたことは一通りやり尽くしてしまったような気がして、グレースは私室の窓からぼんやりと外を眺めていた。
澄んだ青い空とうららかな日差し。堅苦しく結わず背に流したままの金茶の髪を撫でる風が心地好い。気を抜くと長椅子の上でうたた寝してしまいそうになる。

このままではいけない。グレースは気合いを入れて立ち上がり、マリを呼んだ。

「外へ行くわ。支度をお願い」

グレースは長い髪をひとつにまとめると、三つ編みに編み始めた。

持ってきた衣装の中で一番身軽なものを選び着替えたグレースは、広い庭へと出る。といっても、城壁で囲われた王城と違い、どこまでがそうなのかわからないほど広大な敷地だ。当てもなく歩いていては、目的の場所に辿り着く前に日が暮れてしまいそう。
グレースは、ちょうど庭木の手入れをしていた熊のような大男を見つけて声をかけた。

「そこのあなた!菜園はどちらにあるのかしら。お義父様がいらっしゃるはずなのだけど」

「ん?」と梯子の上から彼女を見下ろした髭面が、驚いて鋏を落としそうになる。

「お、奥様!?」

慌てて降りてこようとする彼の重みに、木製のハシゴが悲鳴を上げた。

「危ないっ!わざわざ降りなくて結構よ。方角だけ教えてもらえれば……」

受け止めることなどできるはずもないのだが、ハラハラしながらグレースは両腕を広げる。
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