猫かぶりな伯爵の灰かぶりな花嫁
◇
『夫に従う』
当たり前の宣言をしたグレースに、ラルドはなぜだが衝撃を受けた。ある意味、平手打ちを受けた時よりもそれは強く。
失望?いや、違う。落胆。それとも少し異なる感情。
自分でも言い表すことのできないなにかが、グレースに触れることを躊躇わせている。
愛情などなくても女を抱くには問題がないと思っていた。だとしたら自分は、それさえもできなくなるほど彼女に幻滅してしまったのだろうか。
月明かりに浮かぶグレースの姿を屋根の上に見つけたとき、ラルドは心底肝を潰した。だが同時に、心のどこかで『それでこそグレース姫だ』とほくそ笑んだのも確かだ。
ところがあの言葉で、どこにでもいるただのつまらない女に成り下がってしまったように思えた。そして、そう変えてしまったのはほかの誰でもない自分だ、と。
そうじゃない。彼女は違う。ほかとは違う、ただ独りの――――何だ?
「ヘルゼント伯爵。まもなく到着します」
馬車の窓の外から声がかかる。もうすぐクレトリアとサランの国境だった。
「本当にこのままお国へ向かわれるのですか」
国境の城砦都市に着き馬車から降りたラルドは、バルダロンの使者であるリオスに再度尋ねる。通り道のヘルゼント領にあるラルドの屋敷で一泊してはどうかと勧めたのだが、再三にわたって断られていたのだ。
石造りの壁を挟んで南側はもうサラン国となる。王都からクレトリアを縦断する街道はこの関で一旦途切れてから、堅固な扉の向こうへ再び道を延ばしていく。
「はい。大変有り難いお申し出でしたが、これ以上姫の首を長くさせるわけにはまいりませんので。途中の国を素通りもできませんし」
元騎士団副長だという彼は、よく日焼けした褐色の顔をくしゃりと歪める。予定より王都を発つのが遅れた原因は、輿入れ予定のベリンダ姫が所望していたイワンの絵姿の完成に、思わぬ時がかかってしまったせいである。
「訪問は二度目ですので道もわかりましたから、イワン国王には、お見送りも結構だとご辞退申し上げたのですが」
濃藍の瞳がいたずらに光る。異国人に勝手に国内をウロチョロされては困る、というクレトリア側の思惑は完璧に見抜かれていた。
「大切なお使者殿になにかあっては面目もたちませんので」
「お気遣い痛み入ります」
それも想定の範囲の内。平然と返したラルドにリオスは闊達に笑い、耳元に顔を寄せてくる。四十過ぎの男に近寄られ、ラルドの貼り付けた微笑みが僅かに引きつった。
「実は貴国へ来るときに行き会った隊商の者から、大変興味深い話を聞きました」
意味ありげに潜められた声に、思わず耳を傾けてしまう。
「二年と少し前、クレトリア国内で類い稀なる美少年と隊を共にしたそうです。その教養高い少年は、こちらの国でも珍しい白金の髪と紫水晶のような瞳をしていたとか。どこかの姫君の特徴とよく似ているとは思いませんか?」
『夫に従う』
当たり前の宣言をしたグレースに、ラルドはなぜだが衝撃を受けた。ある意味、平手打ちを受けた時よりもそれは強く。
失望?いや、違う。落胆。それとも少し異なる感情。
自分でも言い表すことのできないなにかが、グレースに触れることを躊躇わせている。
愛情などなくても女を抱くには問題がないと思っていた。だとしたら自分は、それさえもできなくなるほど彼女に幻滅してしまったのだろうか。
月明かりに浮かぶグレースの姿を屋根の上に見つけたとき、ラルドは心底肝を潰した。だが同時に、心のどこかで『それでこそグレース姫だ』とほくそ笑んだのも確かだ。
ところがあの言葉で、どこにでもいるただのつまらない女に成り下がってしまったように思えた。そして、そう変えてしまったのはほかの誰でもない自分だ、と。
そうじゃない。彼女は違う。ほかとは違う、ただ独りの――――何だ?
「ヘルゼント伯爵。まもなく到着します」
馬車の窓の外から声がかかる。もうすぐクレトリアとサランの国境だった。
「本当にこのままお国へ向かわれるのですか」
国境の城砦都市に着き馬車から降りたラルドは、バルダロンの使者であるリオスに再度尋ねる。通り道のヘルゼント領にあるラルドの屋敷で一泊してはどうかと勧めたのだが、再三にわたって断られていたのだ。
石造りの壁を挟んで南側はもうサラン国となる。王都からクレトリアを縦断する街道はこの関で一旦途切れてから、堅固な扉の向こうへ再び道を延ばしていく。
「はい。大変有り難いお申し出でしたが、これ以上姫の首を長くさせるわけにはまいりませんので。途中の国を素通りもできませんし」
元騎士団副長だという彼は、よく日焼けした褐色の顔をくしゃりと歪める。予定より王都を発つのが遅れた原因は、輿入れ予定のベリンダ姫が所望していたイワンの絵姿の完成に、思わぬ時がかかってしまったせいである。
「訪問は二度目ですので道もわかりましたから、イワン国王には、お見送りも結構だとご辞退申し上げたのですが」
濃藍の瞳がいたずらに光る。異国人に勝手に国内をウロチョロされては困る、というクレトリア側の思惑は完璧に見抜かれていた。
「大切なお使者殿になにかあっては面目もたちませんので」
「お気遣い痛み入ります」
それも想定の範囲の内。平然と返したラルドにリオスは闊達に笑い、耳元に顔を寄せてくる。四十過ぎの男に近寄られ、ラルドの貼り付けた微笑みが僅かに引きつった。
「実は貴国へ来るときに行き会った隊商の者から、大変興味深い話を聞きました」
意味ありげに潜められた声に、思わず耳を傾けてしまう。
「二年と少し前、クレトリア国内で類い稀なる美少年と隊を共にしたそうです。その教養高い少年は、こちらの国でも珍しい白金の髪と紫水晶のような瞳をしていたとか。どこかの姫君の特徴とよく似ているとは思いませんか?」