好きにならなければ良かったのに

 「ありがとうございます」と、深く頭を下げる美幸の頬を涙が濡らす。とめどなく流れる涙に美幸は両手で顔を覆った。

「では、何かありましたらお知らせください」
「ありがとうございます」

 病室から出ていく医師に何度もお礼を言うと、再び深くお辞儀をする。

「良かったですね。大きな事故の割りにはたいした怪我もなくて。不幸中の幸いとはこの事ですね」
「大きな事故?」

 幸司の手から点滴を外した看護師は、注射針を点滴の容器へ刺すと容器ごと取り外す。

「あの、大きな事故って?」
「急いでいたらしくて運転を誤ったとか」
「……」

 そう言えば遠藤にそんな話を聞かされたと思い返す。昨夜幸司は自宅へ戻ると言って車を走らせていた筈だった。
 妊娠に気を取られ自分の事しか考えていなかったと、美幸は自分勝手な自分が腹立たしくなる。

「幸司さん、ごめんなさい」

 再び幸司の手を握りしめた美幸は、手の甲に口付けすると椅子に座り幸司の額を優しく撫でる。「私の所為なの?」と、涙目になりながら美幸は眠る幸司に何度も問う。

 「何かあれば緊急用のブザーを鳴らしてください」と言うと、看護師も病室から出ていく。
 美幸は幸司の手を掴み自らの額に当てる。幸司をこんな目に遭わせた自分を許してほしいと。

「奥様、旦那様の無事が分かったんです。お食事にしましょう。お体に障りますよ」

 美幸はとても食事する気分にはなれない。たとえ無事だったとしても病院のベッドで眠っているのだから。
 だから、美幸は頭を横に振る。
 すると、その使用人は美幸に強く言い放つ。

「ダメです。それでは奥様のお体が持ちません。万が一、奥様に何かあれば旦那様に何と申し上げれば良いのか」

 美幸は言われてハッと気付く。自分は一人だけの体ではないのだと。体を起こし自分のお腹を見ると、幸司の手を離しお腹を包み込むように触れる。そして、ぎゅーっと抱き締めるように触れると更に涙が流れる。

「その子の為にも奥様はお食事しなければなりませんよ」
「あなた、知ってたの?」

 まさかと思いながら美幸が振り返ってその使用人を見ると彼女は笑顔で頷く。

「私は奥様のお世話をさせていただいています。最近の体調の変化や月の来るものが来なくなってずっと気になっていたんです。奥様が今朝から何度もお腹を愛おしそうに触られているのを見て確信が持てました」
「……あなたに隠し事は出来そうにないわね」

 食事を取らなければと思いつつもも、幸司のそばを離れたくない美幸は「何か買ってきてくれる?」と、使用人にそう頼む。

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