好きにならなければ良かったのに

「どこか痛いのか?」

 瞼を開けた幸司は美幸に握りしめられる手を目尻へと動かし、流れ落ちる涙を拭い取ろうとするが力が入らず指先が震える。
 震える手を握りしめる美幸は自分の口許へと動かす。弱々しい幸司の手のひらに愛しそうに口付けをする。

「美幸、……大丈夫なのか? 様子が……変だと……遠藤から連絡を貰って」

 こんな時まで自分を気遣ってくれる幸司に涙が止まらない。
 けれど、幸司はその為に急いで帰宅しようとして事故に遭った。幸司の頭の中はまだ運転していたときから時間が止まったままなのだ。

「私なら大丈夫よ。なんともないわ」
「よかった、心配したんだ」
「私より幸司さんを心配したわ!」

 力が入らない手なのに、美幸の頬を撫でるとスルリと後頭部へ指を滑らせ美幸の頭を引き寄せる。

「あの、幸司さん……」
「よかった、美幸が無事で」

 微笑みながら美幸の顔を引き寄せると、唇に軽くキスをする。そして、触れたその唇は欲しいままに重なりあう。
 美幸は目の前に晴海がいるのにと思いながらも、幸司に触れられる唇が愛おしくて離れられない。重なりあう唇から幸司を感じたくて、こんな時なのにと思いながらもキスを返す。
 しかし、それも僅かで、幸司は美幸の元気な姿を見れて安心したのか再び眠りにつく。

「幸司さん?」

 後頭部へ回された手に力はなく、スヤスヤと眠り始める幸司の顔はさっきまでとは違い安心した様な顔をしている。
 すると、パイプ椅子から立ち上がった晴海は目尻から流れ落ちそうになる涙を拭うと美幸を睨み付ける。

「私から何度奪えば気がすむのよ? 幸司は私のものだったのよ」

 苛立つ晴海の気持ちは分からなくないが、美幸は晴海から幸司を奪えたことなど一度もないとそんな気分だった。結婚しても心は晴海にあり、ずっと寄り添ってきたのは妻ではなく晴海だったのだから。

「奪ったことなど一度もないわ」
「よう言うわ。人の男を寝取っておいて。妻としてベッドを共にしたからって幸司があなたのものなんて思わないで。あなたより私の方が幸司にたくさん抱かれているのよ」

 怪我をして病院のベッドで眠る幸司の前でそんな話しなどしたくない美幸は口を閉ざした。それに、今更二人の関係を聞きたくもないし、二人が今も愛し合っているとは思いたくもない。

「泥棒猫」

 その言葉に美幸は悔しくなる。幸司が痛みで眠っているその枕元で、何故こんな罵りあいをしなければならないのか。こんな女を何故幸司が愛したのか美幸には理解できなかった。

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