今夜ひとり、シーツの合間で
ここは最高のホスピタリティが約束されている高級ホテルの、その上階にあるバー。
光量の絞られたムーディな空間には心地よいピアノの音が響いている。正装したピアニストはいつもはジャズにブルースにシャンソンと乞われればなんでも演奏してくれるけど、月に一度の今日だけはクラシックだけを弾き続ける。普段はイヤホン越しでしか聴けない甘やかなショパンやきらめくドビュッシー、情熱的なリストの旋律を心行くまで生演奏で愉しめるのだ。
私は年二回、賞与が支給されるとこのバーに飲みに来て、そこから眺める夜景と美しいカクテルとを堪能する。そしてその後、抑えておいた部屋のベッドで最高に贅沢な眠りにつく。
友人たちはわざわざ高いお金を出して一人ぼっちで豪華なホテルに泊まるなんてどうかしてると笑う。彼女たちにとっては恋人や夫が自分のために用意してくれるものだからこそ価値があるのであって、自腹を切って泊まることは全然ステイタスにならないのだと。
でも私は心地よく整えられた部屋も、そこから眺めるきらびやかな夜景も、ホテルスタッフたちの一流のもてなしも、素敵なものすべてが全部自分の力だけで得たものだということに誇らしさを感じている。
会社でどんなにつらいことがあっても、親や親戚に心無いことを言われて悔しい思いをすることがあっても、ここだけは変わらずに私を優しく受け止めてくれる。
一流ホテルで過ごす最高のひとときがあるからこそ、生まれ育った町から遠く離れた東京でたった一人でも頑張っていける。年に二回だけの、私が私でいられるためのかけがえのない大切な時間だ。
そのご褒美タイムを堪能している最中に思わぬ珍客が登場したのだから、大人げない意地悪のひとつもしたくなる。
「邪魔って、ひどくないですか。知り合いに会ったら挨拶くらいするもんでしょ?」
「緒田君って体育会系だったっけ?礼儀正しいのは結構だけど、場所によってはスルーすることも大事な社会人マナーだと思わない?」
さも世の中の常識を知ってるように先輩風を吹かせてみると、分かり易く緒田君の表情が歪んでいく。
「先輩、職場じゃあんなに俺に優しいのに」
「緒田君だからじゃなくて仕事だからだよ。『最近の新人はメンタル弱いから丁重に扱ってやれ』って課長に言われてるの。まさか緒田君は退社後の時間まで私にお守りされたいの?」
「誰もそんなこと言ってないでしょう」
緒田君の顔から、最初にカウンターに座る私を見付けた時の笑みはもう消えている。そのくせいつまでもこの席を離れようとしない。