愛し君に花の名を捧ぐ
 そうして恐る恐る足を踏み入れた屋内は、塀に囲まれた皇宮の内にあるためだろう。外見ほどには荒れていない。前の住人のものらしき調度類も、大量の埃を被ってはいるがそのまま残っている。

「まずは掃除が必要だわ」

 私室となる間へ案内されると、すぐさま櫃を開けて中を探る。剛燕が譲ってくれた衣類の中から、動きやすそうな衣を引っ張り出した。
 袖と丈の短い上衣と、脚をそれぞれ別に包む褌《はかま》は、馬にも乗れそうな軽装である。剛燕の奥方は、ずいぶんと行動的な女性のようだ。
 さっそく、手近なところから掃除を始めるリーリュアだった。



「颯璉。ちょっと、ここを押さえていてくれない?」

 具合よく思悠宮の裏手でみつけた梯子を屋根に立てかけたリーリュアは、宮の中から飛び出してきた颯璉に手伝いを頼む。

「そのようなもので、なにをなさるおつもりですか!?」

「なにって、屋根をこのままはしておけないでしょう? これでは妖怪屋敷のようだわ」

 どうにか人の住処らしくなってきた内側に比べ、外見はまだまだだ。落ちそうだった扁額は危険なのでそうそうに外させてあったが、瓦の隙間に草の生い茂る屋根はまだ手つかずである。

 入り用なものは用意すると言った颯璉の言質を盾に工具を取り寄せ、壊れた扉などは外からの風雨が吹き込まないよう、とりあえず板切れで蓋をしてみた。初めての作業が楽しくて、つい夢中になりすぎ一日が終わってしまう日もあったくらいだ。

 かぎ裂きや小傷などを作っては、颯璉から長いお小言をもらう。それでもリーリュアは、寂しさを紛らわしているかのように止めない。

「後ほど工部に修繕を依頼します。ですから、危険なことはお止めくださいませ」

「そう? でも、どこが壊れているか確かめてからのほうがいいのじゃないかしら」

 もはや修理は二の次。屋根に登ってみたいだけだという気持ちを、きらきらと輝く瞳が物語っている。
 リーリュアの高揚とは逆に、颯璉の眦が徐々に上向きになっていく。

「……あ、あの! では、わ、私が代わりに、みて参ります」

 騒ぎを聞きつけ集まっていた侍女の中から、ひとりが前におどおどと進み出た。

「そんなのダメよ。危ないわ」

 その危ないことをしようとしているリーリュアを、颯璉がついに睨み付ける。

「屋根の上に乗るお后様など、この方颯璉、いまだかつて聞いたことがございません。そのようなお振る舞いが陛下のお耳に届けば、ますますこちらへのお渡りは遠のかれるのでは?」

「お后らしくない」と言われてしまえば、リーリュアも好奇心を収めざるを得ない。この宮に彼女を放り込んだあと、苑輝からはなんの音沙汰もなかった。

「さあ、西姫様。お召し替えをなさってくださいまし。今日は葆の茶の淹れ方をお教えいたしましょう。美味しい茶で客をもてなすのも、女主人として大切なことです」

 さきほど、果敢にも申し出た侍女には「修理の必要な箇所を内侍省を通して工部へ報告しておくように」と指示して、あからさまに肩を落としたリーリュアを、颯璉は茶に誘った。
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